愛冠岬の霧と鹿

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 釧路湿原から霧多布に向かう途中で、厚岸の愛冠岬に寄りました。町はいい天気なのに岬は濃い霧のな

かで、海はまったく見えません。けっこう訪問者がいて、晴れるときれいなところなんだよと言う人もい

ました。でも崖や森に流れる霧もなかなか風情があります。エゾシカの親子が遊んでいました。


 知床リップさん、町内でもムラサキが咲いているところがあったような気がしますが、どこだったか思

い出せません。あなたがブログに書いているように、埼玉みたいなじめじめした感じではないけど、確か

にこちらにも梅雨らしき時期はありますよ。いまもストーブをつけてキーボードをたたいています。お互

い草むしりには苦労しますね。


 サイタマンさん、あなたのコメントがきっかけでこんなことを考えました。


 フィンランドなどの公教育や世界各地の優れた自由学校に共通する特徴は、生徒の発信意欲を損なわ

ず、アウトプットを上手に励ますところだと思います。文字、楽器、絵筆、身体パフォーマンス、使う手

段は何であれ、表現意欲が旺盛なら、他人にうまく自分を伝えられるようになるための学びに、やがて積

極的になります。ヒトは、誰にも(註)発信できず受動的に情報を溜め込み続けると、心が腐る生物なので

はないでしょうか。

 障害のある人や特定の手段をうまく使えない人を含め、発信の激励、道具や機械の提供、スキル習得

援助などのアシストを、誰もが必要とする時期がきっとあります。必要な時期にそれを得られずに育つ

と、その人は社会からドロップアウトしやすくなる。秋葉原で連続殺人を犯した若者も、コミュニケーシ

ョン不全による苦痛に耐え切れない状態にあったのでは。

 旧い学校には、教師が発信し生徒が受信するという役割の固定があります。生徒はアウトプットを抑制

されながら、インプットだけ受け容れるように強制されます。だから学習が苦痛です。試験では受容した

量を測られるので、自発的な発信意欲はむしろ成績の邪魔になります。溜め込む能力をほめられていい気

になっている「優等生」は、やがて自分が失った自発的創意を肯定評価できないエリートになります。彼

らは、特にこれからは、社会のお荷物になっていきます。抑圧的な家庭や官僚的管理の強い組織にも、似

たようなことが言えると思います。

 註:自然がもたらす情報には押し付けがましいところがまったくありません。その情報を受けて、わた

 したちが何を発信したくなるか、そもそも発信するかどうかにも、自然は無関心です。だからこそ自然

 との交歓ではわたしたちは自由です。自然に媒介されて、自分とのコミュニケーションに安らぐように

 なる人もいます。もっとも他人との交信がなくても独りでいられる沈黙の詩人は、今ではごく少数。そ

 してその少数者も、沈黙の詩人として生きはじめるのは中年以降でしょう。人に育つ途中では他人との

 コミュニケーションが不可欠だと思います。