夜明けの灯台
は昇ったばかりの太陽が、うす雲を透かして赤や黄色の光をふりまいています。岬を後にするころによう
やく、頭上が明るくなりかけていました。
山間の寒村でくらしていた少年のころ、日の出日没に染まる山々を眺め、森を歩くのが好きでした。し
かし豊かな自然のなかにいても、満たされない気分が強かったような気がします。狭い世界に閉じ込めら
れている苛立ちだったのかなと、いまは思います。子どもは行動半径が狭く、人とのつながりにも受身で
す。幼児期を抜けて少年期にさしかかると、空間的にも社会的にも、自分の世界を拡大する欲求が芽生え
るのに、行動は制約されたままなので、心が疼くのかな、と。この苛立ちに駆り立てられて、わたしは文
字の世界に近づきました。動物も親の給餌を待つしかないときは巣から離れられず、巣立ちが近づくと少
しずつ行動範囲を広げていきます。体が育てば自由になれるので、鳥や獣は大きな精神世界を育てないの
でしょうか。
この歳になり、それなりに人の世を渡り歩き、自分個人にできることの限界もはっきりして、外の社会
に向かう欲求が沈静してきました。そうなると、自然な風物との交流で、渇きを癒される充足度が増して
きます。幼いころのように、狭い物理的空間に閉じ込められているわけではありません。飛行機やバスな
どで、あるいは自分でハンドルを握って、行く場所を選ぶことができます。山に登ったり走ったりはでき
なくなりましたが、心と体が仕事に縛られない分だけ行動の自由が大きくなりました。この自由があるか
ら、風物との出会いで自足するのだと思います。美しいとされているものを見ているから満足するのでは
なく、自分の心に訴えてくる相手と出会うから楽しい。
岬の風景も、少年期であれば、これほどまで繰り返し見に行こうとは思わなかったでしょう。すぐ「も
う見たよ」となってしまう。フキの花など、「どこにでもあるもの」として見過ごしてしまう。そして未
知の世界にあこがれる。誰かがもう一度若くしてやると言ってくれても、今と引き換えようとは思いませ
ん。あの、心の世界が狭く、苛立ちに満ちていたころには戻りたくはない。老いも悪いばかりではありま
せん。