花のにぎわい ムダの効用 21
そらさん、胡麻和え、天ぷら、おひたしで味わいました。沸騰したら火を止め、すぐに醤油と削り節で食べるの
が一番おいしいと思いました。
名称でしょうか。ゼンマイに似て幼い穂先はオーム貝のようにしっかり巻き込まれている、緑あざやかなシダの
一種です。
山は残雪、里には花々。オホーツク地方にたけなわの春が始まつています。町で民家の庭を撮りました。よう
やく桜も花開いて。これから7月半ばまで、花を追って外出が増えます。
〔ムダの効用〕
21 交感としての会話(承前)
夫婦や親子兄弟でも、親戚でも、恋人でも、同僚や友人でもいいのですが、あなたが
気の置けない一人の異性に何か話している途中で、相手がとつぜん、関係のない、あな
たが興味のないことをしゃべりはじめたとします。あなたは戸惑いながらも相手につい
ていこうとしますか。それとも話題を変えたことをなじりますか。どちらにしても、あ
なた一人が相手とちがう話を続けたりはしないでしょう。菅原さんが記載した、グイの
中年既婚女性のtと彼女の元恋人M との例(①114-120頁、②ではそれぞれhとZ)で
は、ついていくこともなじることもなく、交わらない会話を延々と同時進行させていま
す。
最初二人は4日前にキャンプであったダンスについて話し合っていました。この間
は、短い協調的な同時発話が2回起きただけ、順調に話者が交代しています。その最後
って見た悪夢の恐怖を語りはじめます。Mは、前にその話を聞いていたらしくあくびを
して、別なことをしゃべりはじめます。「昔はおれも上手に踊ったが、年老いた今で
は、もっぱらほかの男が上手に踊るのを鑑賞し、感激するとダンサーに贈り物をやる」
といった(②153頁)内容です。相手の話していることにはおかまいなしですから、後は最
後まで完全に無関係な同時発話が連続します。二人のほかに耳を傾けている人はいませ
ん。言葉だけ取り出せば、会話というより並行する独り言ですから、わたしたちは異様
な印象を受けます。
ところが菅原さんは、二人がその間ずっと「体をぴったり寄せ(②153頁)」あっているの
を見ています。わたしが思うに、二人は接触した体で会話していたのです。では発話は
不要かと言うと、そうではない。菅原さんは「聞くともなしに聞いている」「曖昧模糊
とした経験」の意味に注目しています(②155頁)。互いの独白は、意味ある情報は伝えて
いなくても、それぞれの内的な感情の流れがにじみ出ていて、身体的会話の、いわば伴
奏音楽のような働きをしていたと、わたしは解釈します。
話は価値ある情報を運ぶことができます。有益性や、聞き手が知りたいと思う新奇性
は、情報の価値です。この場合情報の価値判断は聞き手に委ねられるのが自然です。し
かしわたしたちは、「校長先生のお話し」などに典型的な、話者があらかじめ価値判断
をしている情報を押し付けられることが少なくありません。グイの聞き手は価値判断が
自由です。価値がないと思えば聞かなくても、並行して自分が話したいことを話して
も、とがめられません。
また人は、聞き手に何かをさせようという意図から話すこともあります。話し手が、
話の内容のほかに、聞き手を自分の意図に従わせる力をもっていれば、話は命令や強制
になります。グイの人々は命令や強制をひどく嫌います。何かしてもらいたいと思う話
し手は、その意図が察せられる材料だけ並べ、応えるかどうかは聞き手の意志に委ねま
す(その例は後に見ます)。
tとMの例は、会話には情報価値の受け渡しと意図の伝達以外にも機能があること
を、思い出させてくれます。ここでは感情の交換を助ける機能です。強制や命令が情報
交換や意図の伝達を効率化することはあります。しかし感情はちがいます。わたしの悲
しみを相手に強制的に共有させることできないし、命令されたからといって心から笑う
ことはできません。感情の交換としての会話では、言葉の意味だけではなく、声の大き
さや抑揚、リズム、さらには話す表情や態度など、身体的な要素も重要です。体は言葉
よりウソをつくのが苦手です。
ヒトは言葉をたくみに使う能力があります。身体的な交感を会話で深めることは、そ
こから当然期待される効果です。菅原さんはグイを、「聞く義務を他人に押しつけず話
す権利を行使しうる人々」と定式化しています(②160頁)。聞きたくないのに聞かされ
る、話したいのに話させてもらえない。どちらも強制的な情報伝達には有効でも、心を
解き放つのを妨げ、交感の深まりを阻害します。言葉を体に寄り添わせるには、「聞く
義務を他人に押しつけず話す権利を行使」できるという、グイの「会話のルール」のほ
うがすぐれているのではないでしょうか。
並行する独白を延々と続けるグイの会話に、異様な印象を受けると、初めのほうで書
きました。わたしたちも自分に語りかけることはあります。心のなかだけで終わらず、
声にすることもあります。そのとき、感じたこと、思ったことを隠そうとはしません。
しかし聞いている相手がいれば、別なテーマ、ちがう表現を選びます。自分の心のなか
にある恥ずかしいもの(原罪?) を、他人に知られるわけにはいきません。それに、会話
の相手とは意味が通じることを話しあうべきだ、と思い込んでいます。わたしたちにと
って、独り言と会話はまったく別なものです。だから、tとMが互いに聞こえるように
独り言を続けることに異様さを感じます。
しかし、グイの人々は、自分の心のうちは恥じて隠したりしません(ただ、体について
いくつか、他人の話題にはされたくないテーマがあります―後に詳論)。心を隠さないか
ら、交感が成立しやすくなります。そして、互いの叙述から意味を汲み取ろうとしない
独り言の競演のような会話でも、断片的に耳に入る言葉や発話に付随する身体的表現を
通じて、感情が伝わることは期待できます。「意味が通じる」にこだわるのは、情報交
換や意図伝達に関心を奪われているからです。そう思うと、わたしたちこそ(なかでもわ
たしは)、交感をムダな余剰として切り捨ててきたのではないか、という気がしてきま
す。そうであれば、異様なのはグイではなくわたし(たち)です。(続く)