岩保木水門 ムダの効用23

 健さん釧路湿原のなかには釧路川の氾濫が起きやすい場所や、乾燥化がさまざまな程度に進んだ場所な
 
どがあって、植生も変化に富んでいます。その様子をじっくり観察できる遊歩道は、わたしが知る限りでは、温根
 
内にあるだけ。一昨日は木道脇の泥のなかをじっと狙っているカメラマンがいました。エゾサンショウオを撮って
 
いたのかもしれません。野鳥をはじめとする動物も希少な種が見られる場所のようです。
 
 
 クレマチスさん、松葉菊、富山で息子の一家と海岸に行ったとき道路脇で見たような記憶が。園芸種でも地方
 
ごとの特色がありますね。
 
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 新旧の岩保木(いわっぽぎ)水門は釧路湿原内で唯一の大型人工物かもしれません。河川敷でも乾燥化が進
 
んでいました。釧路川下流のこのあたりでは管理が行き届いて、もう氾濫しないのでしょう。川岸から丘の上に
 
かかるきれいな雲が見えました。岩保木山から細岡展望台まで、小高い丘が続いています。ここにいまは車で
 
入れないほど道の荒れた湿原展望箇所がいくつか散在しています。
 
 
                        〔ムダの効用〕
 
23 隠さないこと、語ること(承前)
 
 「牛皮の毛布破けろ」と題された会話例には、グイの物語的な<かたり>の特徴がよ
 
く現れています(244259)。あらすじはこうです。[同じキャンプに一組の夫婦と一
 
人の女が一緒にくらしていた。夫は猟で得た肉を女に分けず、夫婦だけで食べ、余った
 
肉はとっておく。それでいて夫は女が採集する植物食品をせしめる。ある日女は採集に
 
行って年上の親戚の女に出会った。年上の女はやせこけた女を見て問う。そして事情を
 
知り、その夫婦と別れて一人でくらすようにと教える。それでも、夫に言われた妻が女
 
のところへ採集したものを求めてやってくる。年上の女の指示は、言われるままに食べ
 
物を与え、妻の跡をつけ、夫婦の家の外に座り、「牛皮の毛布破けろ」という呪文を繰り
 
返して早口で唱えるように、というもの。女がその通りにすると夫は腹が裂けて死ん
 
だ。妻は女を止めようとするが、夫が死ぬと、とっておいた肉を女と二人で担いでキャ
 
ンプから去る。] ちなみに、獲物を分けずに、後で食べるために取り分けておくことは
 
忌まわしい行為とされています。これは他の狩猟採集民にも見られる考え方です。
 
 語るのは歳の離れた姉妹です。少し離れたところで男が3人聴いていますが、しだい 
 
に彼らも質問したり、笑ったり、感想を言ったり、登場人物のセリフを発話したりし
 
て、参加していきます。姉妹は掛け合いで語っていますが、終わってからも2回、全部
 
で3回繰り返し、回を追うごとに新しい詳細が付け加えられていきます。プロット自体
 
は、現実の出来事というより、語り伝えられた「民話」のようなものなのでしょう。菅
 
原さんはこう書いています。
 
 
    (前略)無文字社会のなかで「物語」が再生産され伝承される過程とは、けっして
  人々の共同的な記憶あるいは無意識の深層に超時間的に実在しているテクストが<再 
   現>されることではない。「物語」はそのつど語りなおされるたびに、プロットそれ
   自体とともに、それをよみがえらせる人々が棲まう局所的な社会をも表現するのであ
   る。(256)
 
 
 この語りではどんな「局所的な社会」が表現されているのでしょう。引用部分に続い
 
て、菅原さんはこんな意味の指摘をしています。肉を分配されないのは、肉の後で植物
 
を食べて「口直し」をするという、食の豊かさを奪われることで、口惜しいことだ。そ
 
して分配せずに「よそって置いておく」行為はたいてい利己的とされる。物語の進行に
 
つれて、そういう彼らの社会的ルールに抵触する、語り手・聞き手に身近な出来事が想
 
起され、興味・関心が増し、付け加え、感嘆、コメントを誘発し、一同の感興が高ま
 
る、というようなことを。
 
 物語を演じるのは、遠い過去や空想のおもしろおかしいストーリーを楽しむというよ
 
り、くらしのなかに日々生起する葛藤に対する感情や倫理の同致を目指す営みなのでし
 
ょう。物語を演じ、共演する喜びは、「センス」の共有が確認される喜びに裏打ちされ
 
ていると思います。わたしたちが小説を読みドラマや映画を観るのも、きっとストーリ
 
ー展開によって自分の感情や価値観を励起されるのが楽しいから。しかしグイとはちが
 
って、多くのストーリーには、たとえ私的葛藤がテーマでも、福祉事務所、警察、政
 
府、会社、世間などなどの、いわば社会的な組織や観念が影を落としています。読者・
 
視聴者は、表現に参加できないだけでなく、物語の背景あるいは登場者となる社会的な
 
存在に対しても無力です。励起された感情や批評は、独り言としてつぶやかれ、せいぜ
 
い個人の心の裡に痕跡を残すだけ。あるいは親しい人と交わす話の種として、むなしく
 
発散します。実生活での価値判定者はけして私人ではありません。読者・視聴者は表現
 
されたものを娯楽として消費するだけです。
 
 グイの<語り>では語り手も聞き手もともに参加者です。ジャーナリストで裁判員
 
す。ときには自分がかかわる事件が<語り>のテーマになります。それでも登場人物で
 
あると同時に評論するジャーナリストで判決に影響を与える裁判員です。共有を確認さ
 
れた「センス」はそれ自体、「世論や判決」のバックボーンです。<語り>にそれだけ
 
の実効性があるから、興味あるテーマなら身を乗り出さずにいられません。葛藤に耐え
 
切れなくなったり、「世論や判決」に強い不満を感じたりしたら・・・・・ただそのキャンプ
 
から去るだけ。むろん個人間の葛藤が喧嘩、殴りあい、傷害に発展することはあるし、
 
きっと殺人やレイプも皆無ではないと思います(149165頁参照)。しかし公的暴力装
 
置だけは存在しません。
 
 菅原さんは「ハンターとともに獲物の解体に行った男たちが、口々に失望の念を表明
 
してハンターを侮辱する」というリチャード・リーの記述を紹介し、「成功をおさめた
 
ハンターにとっての正しい態度」を思わせる会話例を挙げています(3156)。弓矢
 
猟の名手が狩の思い出を語った一節です。
 
 
   (前略) 彼(義父―引用者)に、おれは話して言った、「おれは昨日行って、ツォーを
   射た。」彼は言った、「おまえ・・・おまえは昨日、やつに矢を入れたのか?」そう言
   った。おれは言った、「アエ、そいつ[矢]は入らなかったよ。エー、ガバに血がつ
   いて落ちていたよ。」そう、おれは彼に話して言った。彼は言った、「おまえはそい
   つにあてたのだよ。だから、血がガバについていたんだ。そんなら、行って、見よう
   じゃないか。」そう彼は言った。-
 
  グイの「センス」からすれば、「みごとに仕留めたよ、さあいっしょに解体しに行こ
 
う、」と言うのは傲慢なことです。わたしたちがその種の発言に違和感をもたないとす
 
れば、それは序列社会に順応しているから。グイで正しいハンターの態度は、「当たっ
 
ていないと思うけれど、矢に血がついていたよ」と言って、相手に判断を委ねることで
 
す。「解体しに行こう」とも言いません。菅原さんは「自分のほうから積極的に働きか
 
けて相手を相互作用に引き込むことを避け、相手が自発的にかかわってくるのを待つ」
 
のが、グイの「センス」だと考えているようです。
 
 彼はこんな譬えを紹介しています:故障したドライヤーを直して欲しい人が、テーブ
 
ルの上にばらばらになった部品を放置しておく。それを見て修理してくれることを期待
 
して。はっきり依頼した場合、直してくれれば借りを作ることになり、直してくれなけ
 
れば冷たく拒否されたことになる。部品の放置なら、直してくれるのは自発的行為で、
 
直してもらえなくても、気づかなかっただけと思うことができる。
 
 菅原さんは<並行的な共存>という表現を使っています(3267)。対等な並行関
 
係を損ないたくないから、狩の獲物は自発的に分配され、もらった側は感謝を口にしま
 
せん。激しい口論をしても、どこか「喧嘩ごっこ」のような余韻が残ったりもします。共
 
存が成り立たなくなってキャンプを去るのは、強制的な排除によるものではなく、お互
 
いが状況を察しての自発的な行為なので、将来自然にまた戻ることもできます。
 
 生々しい葛藤があるから、仲間との心の融合を求める欲求も切実であり、身を乗り出
 
して<かたり>に参加し、ダンスに陶酔することになります。グイの人々は、<並行的
 
な共存>の分散性に抗するには、気持ちが融け合う瞬間がなくてはならず、そのために
 
は葛藤が必要だと知っているかのようです。菅原さんは、頻発する婚外性関係(ザー
 
ク)への彼らの対応に、そのことを感じたのかもしれません(331)。次回のテーマは
 
ザークです。(続く)