湿原歩き ムダの効用 22
すぎて北海道には根付かないのかも。
温根内の遊歩道は湿原の中に木道が、乾いて丘に変わる境目には土の道があって、湿原のさまざまな段階
に適応した植生と野鳥を見ることができます。湿原の中はまだ枯れ草色が優勢ですが、それでも何種類かの花
は咲いているし(写真は別にアップします)、1メートルもありそうな青大将は出てくるし、ジュラシックパークにでも
ありそうな大きなシダ植物の若芽は見られるし、けっこう変化に富んでいます。Hoさんも、いいところに連れてき
てくれたと、喜んでいました。「歩こう会」の責任者をしている彼も、この道を歩いたのは初めてだったそうです。
〔ムダの効用〕
22 隠さないこと、語ること(前)
ある日あなたが職場の仲間、家族、友人などとおしゃべりしているところに、研究者
だと名乗る人がやってきて、「会話を録音させてほしい、」と申し出るとします。あな
たは「他人のプライバシーを何と思っているんだ、」と憤慨するでしょうか。それと
も、ちゃんとした研究であると確かめて、協力しようとするでしょうか。その場合でも
たいてい、プライベートな部分はダメと条件を付けたり、マイクを意識して会話が不自
然になったりするでしょう。ところがグイの会話を録音するとき、菅原さんにそういう
困難はなかったそうです。
その理由を彼はこう考えています。グイは「なにか「隠しごと」をすることを悪徳と
みなす明確なイデオロギーをもっている」から、「会話サンプルは、私たちの常識から
すればあまりよそ者には聞かせたくないであろう話題に満ち溢れていた」のに、「私の
録音にあれだけ寛容だった」、と (①12頁)。その例として、「隠すと、あのようにキャ
ンプを破滅させてしまう。あのキャンプも、あのキャンプもなくなった」という、ある
①169頁)。わたしたちの社会ではプライバシーは人権の一部です。彼らにはなぜ隠しご
とが悪徳なのでしょうか。
わたしたちは社会秩序が、法、役所、マスメディアなどを核とする、求心的な形をと
る社会でくらしています。そしてそれらにかかわる活動には公共性があるとして、その
活動を職業とする人を公人とみなします。それ以外の人は、あるいは公人でも職務を離
れれば、私人です。私人にはプライバシーの権利があります。しかしグイの人々は、権
威・権力が特定個人に固定されることを嫌って、公共性と私的生活の分離を受け入れま
せんでした。そのため、人間関係の葛藤には、人々の会話を通じて日々更新される、感
情や価値観の共有の確認によって対処します。私的な会話と集団の話し合いが地続き
で、分離されていないということです。話し合いのなかで誰かに何かを強制せずにすむ
雰囲気を作ろうとします。つまらないおしゃべりに見えても、話し合うことに公共性が
あるから、話題となる葛藤の隠蔽は認められません。法廷で偽証が罰されるのと同じで
す。
集団の話し合いであっても、異なる意見のどちらが正しいかをめぐって、多数者の賛
同を獲得するために論議を戦わせるのではありません。多数決による合意を不同意の人
に押し付けることになれば、それはやはり強制であり、強制を執行する権力の出現に道
を開くことにつながります。そういうことではなく、グイの話し合いの効果は、感情の
集団的な交感だというのが、わたしの解釈です。
菅原さんは<はなし>と<かたり>を区別する坂部恵の理論をこう要約します。「す
なわち、<はなし>が、より素朴、直接的であり、緊張をふくんだ発話状況に対応する
のに対して、<かたり>のほうは、より統合と反省の度合いが高く、緊張緩和や<あそ
び>をふくんだ発話状況に対応するのである。」さらに彼はこう言います。「グイの人
たちは緊張をふくんだ「まじめな」<はなしあい>から、容易に<かたり>の世界に移
行しうる驚くべき柔軟さ(それを<あそび>の精神といってもよい)をもっているのであ
る。」(②177・178頁)
耳に入る会話が興味を誘うものを含んでいれば、合いの手、感嘆、唱和、反復、同時
発話による敷衍や話題拡大などで聴衆が参加し、ささいで日常的な<はなし>が、物語
的な<かたり>に転化します。20章でわたしは、「」に囲まれたような直接話法のセリ
フが、同時発話でキャッチボールされている例を紹介しました。物語では登場人物の発
話が直接話法で演じられることがよくあります。グイの人々は二人だけの会話でも、物
語のように外からの視点を意識しているのでしょう。菅原さんはフォークロア研究者で
あるメガン・ビーゼリー考えを、こうまとめています。
物語は、狩猟採集を行い、その収穫を正しく分配するという社会的営為にみなぎる
肯定的な雰囲気を見事にとらえ固定する。さらに物語はこれらの経済的布置に対する
人間の諸「態度」をはっきりと描き出し、喚起する。それらの態度によってこそ、協
同して資源を利用し生存を支えることが可能になってきたのだ。物語によって育まれ
るセンスに基づいて、人々は社会的活動を規定するルールに関する合意を達成してゆ
く。そこでもっとも重要な記憶メカニズムとして働いているのが演劇性である。ドラ
マチックな葛藤に没頭することによって、人々は、物語の形式と内容を内面化し想起
することへの動機づけをいやがうえにも高められるのである。(①242頁)
グイの人々の間でも、ささいな日常会話が物語につながっていて、観客参加の演劇の
ような語り合いが、協同を維持する社会機能を担っていたのでしょう。彼らにとって物
語は、人々の気持ちを融合させ、共通な「センス」(感情であり倫理でもある共同性)を活
性化させる、社会にとって不可欠な営みになっているわけです。このセンスが、明文化
された法律や強制権力に代わって、社会秩序を支えています。わたしが思うに、彼らは
自分の日々のくらしを他者の目で眺め、それが他者によってどのように語られるかを忘
れない視点が、無意識のうちに染み付いているのです。隠すことは物語の共同的機能を
損なうから社会悪なのです。
しかし「隠さない」ルールには例外があります。ブッシュマンに特徴的な性器の構造と
糞に関する話題です。性器の形を言うことは、気安い関係(冗談関係)では罵りやからか
いの種になることはあっても、一般には侮辱とみなされるので抑制されます (70-72
頁)。誰かの糞を話題にすることは禁物です。お互いに糞をする体をもつことは、知らな
いフリをすることになっているようです。糞という言葉を口にして殴られた青年のケー
スでは、殴られたほうが悪いと言われたそうです(74-77頁)。にもかかわらず、肛門に
ついてはあけすけに話題にされます(79-82頁)。
これらのテーマが抑制される理由について、理屈をつけようとすればできそうな気も
します。人間関係の葛藤とちがって、個人の身体にかかわることですから。しかし、ち
がう文化の中で育った人が、なぜ特定の部位は話題にしてもよくて他の部位はダメなの
かを、リアルに感じ取ることは無理なように思います。わたしも憶測は慎みます。
(<語り>の話題は次回に続く)