チングルマ ムダの効用25
意識して、大雪山系○○岳みたいな言い方がされることもあります。
1959年7月15日に撮った一枚のモノクロ写真が手元にあります。霧のなかでどこまでも続くように見えている
たりだったような。それ以来山のお花畑というと、まず思い浮かぶのがこの花です。
今年7月5日の姿見の池自然探索路ではまだそれほど大きな群落になっていませんでした。この日雪渓だっ
たところにこれから咲きそろうはずです。それでも早くに山肌が露出した場所では、最後の一枚のように花が終
わって、綿毛になっていました。秋になると葉がみごとに紅葉するとか。
〔ムダの効用〕
25 結婚とザーク=婚外性関係(承前)
わたしは高齢者施設に入所した妻の祖母から、何度も長々とグチを聞かされたことが
あります。入所している男女の間でひんぱんに、誰が誰の相手を取ったとか取らないと
か喧嘩が起きて、怖くて耐えられないと彼女は訴えました。老齢者の生々しい色恋は他
ではあまり聞かない話です。ゴシップ好きな週刊誌やテレビもあまり取り上げません。
読者・視聴者が喜ぶテーマではないからでしょうか。それとも、たまたまこの施設でそ
ういうことがあっただけで、若い人が想像しがちなように、一般には歳をとったら性愛
は枯れるものなのでしょうか。グイの人々は、そのどちらでもないようです。性にかか
わる葛藤は、当事者が若くても年寄りでも、常に関心をもたれる話題です。そして狩な
どの仕事は引退した高齢者も、ザークでは現役です。
菅原さんは①で、複数の妻をめとったり、事実上の一妻多夫に近いところまで行った
り、かなり長期間二組の夫婦がスワッピング状態を維持したり、さまざまな年齢の既
婚・未婚の異性に何度もザークを仕掛けたりする、グイの男女の例をたくさん書いてい
ます。成就の満足や快感の一方で、もちろん激しい嫉妬、怒り、喧嘩口論も避けられま
せん。当事者のなかには老爺・老婆と言える年齢の人々も含まれています。菅原さんの
記述には、葬られてはじめて、性的葛藤に心を乱されなくなるのだと、わたしに感じさ
せる箇所もありました(142頁)。
青年カローハの例を取り上げてみます:彼は人妻カヤーマと恋人関係をもっていまし
た。人々はカヤーマの次女は彼の子だと言います。周りの人々はこの恋人関係を心配し
て、彼を若い娘グエと結婚させます。式の数日前、乳飲み子を背負ったカヤーマが彼の
キャンプに現れ、赤ん坊を産ませながら若い娘と結婚する彼をなじります。彼とグエの
結婚は一週間で解消され、カヤーマとの関係が復活します。翌々年彼は別な若い娘ボウ
と結婚しました。しかしカローハにはカヤーマ影があって、人々は若夫婦の関係に気が
もめます。ギナシという男がボウに求愛し、たくさんの食べ物などを贈っていますが、
ボウは応えません。贈り物を受けとっていてザークに応じないことを、ボウの親族は
「負債」と感じています(①154頁)。一方ギナシの年上の妻である老婆クイシは、ギナシ
がチェネという老女と恋人関係にあることに怒り狂いながら、彼女自身もカローハにザ
ークを仕掛けています。カローハは後に、彼と離婚してから何人もの男と関係して評判
の悪いグエと、ひそかに恋人関係をもちます。(157-170頁)
この程度のことなら、性の開放が進んだ今の先進社会でも珍しくないのかもしれませ
74年作品)には、主人公夫婦の、結婚、離婚、それぞれの再婚、婚外性関係、離婚した夫
婦の葛藤と性愛の再開、などが描かれています。この作品の登場人物に、わたしはグイ
の人々との類似を感じました。女性が経済的にあまり夫に依存しなくてすむ社会では、
厳格な一夫一婦制を逸脱する錯綜した性関係があたりまえになるのでしょうか。北欧諸
国では教育でも経営でも、序列秩序よりイノベーション力が評価されます。グイの人々
は権威・権力を嫌います。性愛の開放度と階層秩序からの自由度は、相関するところが
ありそうです。
もっともこのドラマとグイのザークにはちがいもあります。菅原さんは、グイにもわ
たしたちにも共通する「誘惑のシナリオ」を、次のように定式化しています。
私の欲望が向かう相手が、わたしのことをどう思っているかは未知である。私がた
めらいがちに相手に働きかけるとき相手から返ってくる応答を徴候的な手がかりとし
て、私は相手の心のなかに私に向かう同型の欲望を読みとろうとする。この探索によ
って、肯定的な徴候が増えれば増えるほど、相手の欲望に対する私の確信は深まり、
私の誘いかけはより直截さを増してゆく。このフィードバック過程の帰結として、私
は相手と性交する。(③148頁)
現在、「愛があれば二人はうまくいく」とか、「うまくいかないのは愛がないから」
とかの神話が流通しています。そして、結婚は「愛」の完成であり、婚姻儀礼がそれを
固定するとでもいうような幻想が、結婚の現実―身体資源としての相手の確保―を覆い
隠しています。「愛」は定義できません。だからこそ、便利に使われます。性愛を覆う
このフィクションを取り除けば、「誘惑のシナリオ」に沿う合意を欠いた性愛は、暴力
や制度・習慣の力による強制でしかないという現実があらわになります。ベルイマンの
ドラマで主人公の夫婦は、互いに対して怠りなく「誘惑のシナリオ」を実行していなか
ったと思います。「夫婦」であることに気を許したのでしょうか。グイの場合、婚姻に
ザークを防ぐ力はないと、お互いによくわかっています。配偶者に対してもそれ以外の
異性に対しても、関係を維持したい、新たにつなぎたいと思えば、まめに働きかけ、
「徴候」を見逃さないように油断なく努めます。
ところで菅原さんは、最近の若い男女の「コクる」という行為について、「かれら
は、もはや、徴候を手がかりにするという不確定な宙づり状態に耐えられないかのよう
だ」と、書いています(③185頁)。彼は「延々たる持続」がグイの特質だと考えてい
ます。(②331頁)
ベルイマンのドラマとグイのザークにはもう一つ大きなちがいがあります。ベルイマ
ンは主人公の体験をあくまで二人の問題として描いています。周りの人々はその詳細を
知ろうとはしないし、公然と話題にすることもありません。ドラマは、二人の「愛」の
成熟が和解につながるかのような、かすかな予兆を示して終わっています。制度として
の結婚、生ものである性愛、それを二人だけの問題にしてしまえば、けっきょくは
「愛」を持ち出すしかないのでしょうか。グイの人々は、集落の人ほとんどすべての性
関係を承知していて、繰り返し話題にし、批判し、怒り、忠告します。情熱的にザーク
を追及し、当然そこに生じる葛藤について、他人のものであっても、身を乗り出して公
然と語りあいます。次回のテーマは、ザークを公然と語り合うことと「強制権力」の回
避とのつながりです。 (続く)