ハクセキレイ ムダの効用 20

 クレマチスさん、なんじゃもんじゃは聞いたことがあります。これだったんですね。おもしろい花。 ヒトツバタゴ
 
はすぐ忘れると思いますが、なんじゃもんじゃの名で覚えられそうです。
 
 わたしも歌より俳句のほうが作りやすくて。それも子どものころのこと。いまは自然に湧いてくるのでなければ
 
作りませんけれど。
 
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 せせらぎ公園にしつらえられた池と引き込みにハヤ(ウグイ)が群れていて、それに気を取られているのか、ハ
 
セキレイは警戒心が薄かったみたい。いつもより近くから撮れました。ところで、ハクセキレイでいいのでしょう
 
ね。なにしろ似た種類の多い鳥ですから。
 
 
                          〔ムダの効用〕
 
20 交感としての会話()
 
 菅原さんは、グイの人々の間で収録した多くの会話事例を収録しています。
 
『語身体の民族誌(京都大学学術出版会 1998年刊)には37件、②『会話の人類
 
学』同前)には38件、翻訳して記載されています。事例それぞれにわたしたちの
 
会話とはちがうおもしろさがあります。しかし、そのすべてに感想を書くわけにもい
 
きません。それでは、業界(学界)向けの用語と構成で書かれた二冊を丸々、素人の言葉
 
と解釈で書き直すことになってしまいます。やむをえず、グイの会話で特徴的な同時
 
発話を中心に、わたしの解釈をまじえ、少しだけ紹介します。
 
 同時発話とは、一人が話すのと並行して他の人が発話することです。わたしたちの
 
日常会話ではふつう、話し手が順調に交代する際のごく短時間(平均0.5秒間という
 
イギリスの調査が例示されています)、同時発話が起きます。ところがグイの会話では
 
ちがいます。「AがしゃべっているときBがAにオーバーラップするが、Aはある発
 
話文を完了させる。そのときBはまだしゃべっているかもしれない。一息入れたAは
 
Bに対してオーバーラップし、今度は先のAとBの立場が逆転したかたちになり、以
 
下同様に続く。」グイではこちらのほうが常態で、「しかも同時発話をかぶせるほう
 
もかぶせられるほうも何の混乱の気配も見せずに、話し続けるのである。」1回の持
 
続時間が4,5秒になることも多いのだそうです。(148149)
 
 まず父が兄弟である異性のいとこ(礼儀正しく遠慮して接すべき「忌避関係」とされ
 
)二人の会話の一部。n(年上の女性)は自分に所有権のあるヤギをS(年下の男
 
性)に預けています。nはSの出猟中に、娘を呪術治療してもらった謝礼にするた
 
め、ヤギを連れ去る了承を求めています。会話全体が忌避関係にふさわしく協調的で
 
す。次の引用で下線部は二人が同時に発語しています(②137頁-記載の形式は原著
 
とちがいます)。なお、「焼く」は、焼いて食べる(のもかまわない)という意味で
 
す。
 
 
S もしわたしが持ち主自身なら、そいつがそこにいるのを捕まえて[灰で-原著補足]焼く、それから・・・・・・
n                   もしわたしが持ち主自身なら、そいつがそこにいるのを捕まえて焼く。そいつを焼く。
 
 
 Sは所有者ではないので、「もし」という仮定表現は妥当です。しかし、持ち主の
 
nが仮定するのは変です。ここでnはSのセリフをオウム返しに、復唱(1フレーズ遅
 
れるから輪唱?) していると考えられます。実用的には、「預けてあるヤギをあなた
 
の留守の間に連れて行くよ」「いいよ、どうぞ」、で終わってもいい内容です。それ
 
を長々と、なぜヤギで支払うのか、ヤギを大きくして食べられた、断らずに連れて行
 
ったらSがどんな気持ちになるとnが思ったか、預かった一頭が見当たらない、連れ
 
て行っても草を食べに帰るのではないか、などと、お互いにあいづちを打ちながら、
 
しゃべります。わたしたちのなかにはこれを、ムダに冗長な会話で効率が損なわれて
 
いる、と考える人がいるかもしれません。
 
 菅原さんは、遠慮が必要な、社会的緊張と相克が生じる可能性がある関係では、
 
「形式化」が起きる、という意味の主張をしています。 (132頁他)。形式化とは、相
 
手の発言に触発される即時的反応を抑制し、あいづち、復唱、肯定などで協調を示す
 
会話です(102103)。ひんぱんなあいづちや肯定は、わたしたちの社会でも、先
 
輩と後輩、教師と生徒、上司と部下などの会話で、ふつうに見られます。(最近は若い
 
人の仲間関係にもそういう圧力があるようで、なにやら不気味です。) これらの関係
 
では、「遠慮」は劣位者側に多く、非対称的です。ところが、菅原さんが記載した協
 
調的なグイの会話例ではすべて、二者が対等に、相互に即時的反応を抑制し、いわば
 
遠慮の「センス」を示しています。
 
 例示したSとnの会話で、オウム返しの同時的な復唱が起きていました。菅原さん
 
は、グイの人々が、「「物」としての考えが「容器」としての心の中にあるという
 
「イメージ図式」」をもっている、と考えています。だから、「大きな「かたまり」
 
としての考えは、わたしの心からあなたの心へとそっくりそのまま流通していきうる
 
のである」と。(145) わたしが思うに、nの「もしわたしが持ち主自身なら、そい
 
つがそこにいるのを捕まえて焼く。」という復唱は、n自身の考えを語っているので
 
はなかったのです。Sの心のなかにある考えを、投げられたボールのようにキャッチ
 
した証だから、そのまま投げ返します。しかも、「そいつを焼く」を繰り返して。さ
 
らに力をこめてボールを返すのに似ています。
 
 忌避関係なので年長者が優位なはずですが、ここで投げ返しているのはnの方で
 
す。グイの人々は「形式化」された会話でも、協調を実体化すべく対等に努力しま
 
す。「まさに遠慮とは、インタラクションの背後に立像される相手の心を忖度するこ
 
とにほかならないのだ。(146)」わたしたちの「遠慮」は、互いの序列や距離の確
 
認ですから、似たところはあっても質がちがいます。会話が実用目的であるより、心
 
と心を交わらせる営みなので、「預けてあるヤギをあなたの留守の間に連れて行く
 
よ」「いいよ、どうぞ」、では終わりません。(このテーマ続く)               
 
※ グイはいくつもの言語族に分かれるブッシュマンの一つです。ブッシュマンは旧
 
石器時代から近年までずっと、狩猟採集を主な生業としてきた大きな民族です。文字
 
はもっていませんでしたが、6000年前ごろを中心に(最古の遺跡は2万5000
 
年前)、3000箇所、10万点を超える岩面図を残しています。かつては南アフリ
 
カから東アフリカにかけて広く分布していました。しかし19世紀に、オランダから
 
の移住農民を祖とするボーア人や他の白人たち、さらに同じく白人に追われた農牧民
 
のバンツー系の人々による、侵略・圧迫が激しくなって、人口が激減しました。
 
 菅原さんは1980年代と1990年代に、ボツワナに住むグイ語族の人々の間
 
で、フィールドワークを行いました。彼らのキャンプには、婚姻関係・恋人関係に
 
あるグイ語に近いガナ語系の人々も見られます。ボツワナの人口も政府もバンツー
 
系の人々が中心です。グイは三者のなかで狩猟採集生活への執着が一番強い人々で
 
す。ガナは彼らより農牧への順応が進んでいて、それだけ経済的に優位です。ガナ
 
やテベ(ブッシュマン以外)からは、下層民と見られる傾向もあるようです。
  
   1970年代末からボツワナ政府の遠隔地開発計画が始まり、1997年に最終
 
  的に、狩猟採集の場であった動物保護区から追われ、その外の集住村に集められま  
  した。ヤギの飼育、ボツワナ政府の配給や雇われ仕事、観光客へのみやげ物販売も
 
  始まっています。政府は定住と農牧を奨励していますが、グイやガナの人々は短期
 
  間で移動する、昔ながらの狩猟採集キャンプにこだわりがあります。しかし新世紀
 
  に入り、混乱と伝統社会崩壊がいっそう加速しているようです。