氷の造形 ムダの効用 13

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 orion*.:‘さん、まりさんと友だちになったのですね。実際には会わなくてもつながることができる、

あたらしい時代が始まっているような。


 まりさん、作詩の能はありませんが、カメラを意識して風景を眺めていると、よく詩心のうごめきを感

じます。恋しているとすれば、美しいと感じられるさまざまなもの、それに70年生きてようやくぼんや

り見えてきたような気がする何か、が対象ですね。


 写真1,2枚目は2月の湖畔で見かけた造形、残りは玄関のガラス戸に着いた氷の文様です。身の回り

を細かく見ると、いろいろおもしろいものがあります。特に厳寒の冬は。


               〔ムダの効用 〕


 13 交感する心の世界(前)


 わたしたちにとって「自然」とは、人の手が加わっていない物質から成る世界を意味しています。この

言葉の背後には、人以外の万物を人から分離し、客観的認識と意図的な操作の対象とみなす姿勢がありま

す。近代以後は急速に、世界のいたるところで、そういう自然観が普及しました。しかし農耕と牧畜が生

業の中心になるまでは、大地、空、水、動植物や鉱物など、一つ一つの自然物を指す言葉はあっても、人

以外の万物を総括的に対象とする概念はなかったと思います。そして最近まで、地理的あるいは文化的な

「辺境」では、具体的な自然物に心を投影して応答する、交感的・融合的な対象理解が、完全には消滅し

ていなかったようです。以下の章でそのような痕跡をいくつかたどってみます。

 最初の素材は、『リトル・トリー』(フォレスト・カーター著 和田穹男訳 めるくまーる社刊)です。

この本は、今から34年前に出版された、著者の自伝的作品です。カーターは5歳で親を失って、チェロ

キー族の祖父母とくらし始めます。リトル・トリーは著者のインディアン名です。わたしたちが文字にす

る言葉は、狩猟採集生活から分岐して久しい文化系列に属しています。そのため、分岐以前の人の心にあ

る、わたしたちと異質な部分を表現しようとすると、絶望的な困難に直面します。しかしカーターは、子

ども期にしっかり受け継いだアメリカ先住民の心が風化する前に、すぐれた文学的素養を身につけること

ができました。そのためこの作品は、書き言葉の系列では例外的なところまで、狩猟採集民の心的世界に

接近しているように感じられます。

 リトル・トリーの祖父母は、カボチャやトウモロコシの栽培もしています。しかし農作業は少年にも祖

父にもうれしい仕事ではありませんでした。彼らは「気分転換」と称して、しょっちゅう森や山に出かけ

ます。祖母が作ってくれたモカシン(踵のない鹿皮靴)で歩けば、「モ・ノ・ラー、母なる大地の感触がモ

カシンをとおしてぼくの足裏から伝わってきた。土の凹凸やなめらかな感触、血管のように大地の体内を

這いまわる木の根、さらに深いところを流れる細い水脈の生命さえも。大地は暖かく弾力があり、ぼくは

その厚い胸の上をピョンピョン跳ねているのだった。」(22頁)

 行きがけに山七面鳥の通り道で穴を探してわなを仕掛けます。帰路には、少年が辛うじて一羽背負える

大きな獲物が、六羽かかっていました。祖父は少年に3羽選ばせて二人で持ち帰ります。リトル・トリー

はすでに祖父から、「必要なだけしか獲(と)らんこと。鹿を獲るときはな、いっとう立派な奴を獲っちゃ

ならねえ。小さくてのろまな奴だけ獲るんじゃ。そうすりゃ、残った鹿がもっと強くなっていく。そして

わしらに肉を絶やさず恵んでくれる。」(25・26頁)と聞かされていました。だから正しく選ぶことができ

ました。


  母なる大地(モ・ノ・ラー)の子宮の温度差に応じて、さまざまな種が生み出される。暖かくなりはじ

 めたばかりのころには、一番小さな花たちだけが咲く。だが、気温が上がるにつれて、もっと大きな花

 たちの出番となる。樹液が幹から枝へ駆け上ると、木々は臨月を迎えた妊婦のように内側からふくら

 み、ついにいっせいに芽を吹き出す。(164頁)


 春一番の花であるインディアン・スミレ、針葉樹の葉、ミズバョウの根や種はお茶の材料です。ドング

リの実は粉にしてヒッコリーやクルミの実の粉と混ぜてフリッターにします。タンポポイラクサはサラ

ダ。ヤナギランは皮を剥いてそのまま食べたり、煮てアスパラに似た味を楽しんだり。カラシナもサラダ

にする他、種をマスタードに。黄イチゴ、黒イチゴ、コワトコの実、コケモモ、クマイチゴなど、山にふ

んだんに実るベリーは口の周りを染めてむさぼったり、お酒や料理の素材にしたり。春早い時期から秋ま

で、おじいさんの言い方では、「森はわしらにいつだって食べものを与えてくれ」ます。

 作者・訳者は、他にないから「母なる大地」という言葉を充てながらも、「モ・ノ・ラー」はそれとはち

がうと感じています。きっとそれは、足の裏から伝わる岩・落ち葉・土・地中水脈の感触、そこから萌え

る草やはびこる木の根・伸びる幹・茂る枝葉、それらの間で駆け隠れる大小の動物、それらすべての形や

色・音・匂い・手触り、探したり狩ったり食べたりするときの失望や歓びや味などが、分かちがたくまと

わり付いた概念でしょう。

 自分たち・人も、それら万物の織り成す世界に組み込まれている一部分です。何も特別なところのない

生き物の一種です。生き物だから他の生き物を探して取って生きる知恵があります。もちろん生きる糧を

消耗しつくさない知恵も。客観的に探求する知恵ではなく、生きることとそれに伴う感情とが融合してい

る知恵です。他の自然物と対等な存在であることは、知識として学ぶのではなく、ただ知っているので

す。対等ですから、「自然に感謝する」とか、「自然保護」とかの発想は理解できないでしょう。災害が起き

れば力と知恵の限りを尽くして生をつなぐ努力をし、及ばなければ滅ぶだけです。


  冬の冷たい風にどうにか持ちこたえた木であっても、それを間引く必要ありと母なる自然が考えたな

 ら、彼女は風のむちをくらわせて根こそぎ引き抜き、谷底へ放り捨ててしまう。彼女は灌木(かんぼ

 く)であろうが大きな木であろうが、枝の上をくまなく這い、風の指で触れまわって、少しでもひ弱な

 部分を見つけると、容赦なく吹き飛ばす。(165頁)


 狩猟採集民の知は、情動と融合しているので、客観科学の知のように抽象化されてどこまでも広がるこ

とはありません。しかし、生活圏にある人やモノについては、心身に刻み込まれたとても深い知識をもっ

ていたと思われます。それは、科学や政治につながる系列とは別な、もう一つの豊かな文化として、十分

な敬意に値するのではないでしょうか。(このテーマ次回に続く)