黒百合 ムダの効用 番外篇ヤノマミ ②
町の群生地に先週咲いていた黒百合です。花弁が3センチほどですから、他の百合よりは小さいですね。本州
では山奥にしかないようですが、こちらでは北見の街中の公園など、まだまだ残っているみたい。民家の庭に植
えられいるのも時々見ます。でもやっぱり黒百合は大きな群れに風情がある野の花です。一輪だけアップした
ら、きれいと感じられる色ではないですから。
〔ムダの効用〕 番外篇 ヤノマミ ②
② <労働のない世界>
ヤノマミにはグイと共通な要素がたくさんあります。例えば会話では情報伝達より
感情の共有が重視されます(36頁)。命令ではなく「直接民主義」的なみんなの合意で物
事が進み、合意に反対して集団から出たりまた戻ったりが自由です。狩の獲物は公平
に分配されます(43、72、78、118、165頁)。既婚者を含め活発な婚外性関係があり、性
関係に絡む葛藤も多いけれど、女性が一方的に受け身なわけではありません (102、12
4、128、136頁)。これらはおおむね共通です。母親だけに委ねられる、産んだ嬰児をヤ
ノマミとして受け入れるか精霊のまま送り返す(嬰児殺し)かの決定のような、独特な慣
習もあります。
著者が何度も触れていることで、グイについて菅原さんがあまり語っていなかった
ことがあります。仕事にかかわる意識です。ヤノマミの男たちは、祝祭準備以外で
は、空腹にならなければ狩をしません。好きなだけ眠り、おしゃべりに興じ、川で水
を浴び、ハンモックでごろごろしていて、食料がなくなると出かけます。(51頁)買
って食べるより自分で獲り、気の置けないものたちといっしょに焚き火を囲んで食べ
るほうが、きっと深い満足を得られます。食べたい気持ちや妻子・老親の喜ぶ顔を見
たい気持ちが高まったときだけ出かける狩は、労働ではありません。労働になるの
は、半分以上は主人や首長に納める秋の収穫のため、鞭にあるいは集団規制や季節に
追い立てられて行う耕作、それにくらしに必須な賃金を得るために、気分が乗らなく
ても怠けることができない肉体労働や事務仕事などです。
汲み、掃除をし、日常の食事を作るのは、ヤノマミでは女の仕事です。著者は「女た
ちは一日中働き続けているように見えた(51頁)」と書いています。その女たちは一日の
大半を畑で過ごします。そこではいつも親しい者たちが一緒で、夫や家族の噂話をし
たり赤い実をすり潰して身体に塗ったりしていて、笑い声が絶えません。「その表情
からは、農作業が女の努めであるといった重々しさは微塵も感じられなかった」、と
いうのが著者の感想です。(51-54頁)
北海道や北方以外は、狩猟民と言ってもたいていはカロリ―の3分の2以上を糖質
から得ていたようです。ヤノマミの女たちは自分が家族を支えているという自負に支
えられて、堂々としている印象です。しかし文明社会の農家の主婦などは、彼女たち
は遊び半分で仕事をしている怠け者だと言うかもしれません。そう言われたら、ヤマ
ノミの女たちは不思議がるのではないでしょうか。これでくらしていけるのに、なぜ
それ以上に仕事を増やさなくてはならないのか、と。自然経済の営みは楽しみと労苦
に分離していないようです。それだけ密度は低いでしょう。勤勉とか効率とかは、労
働者の生み出す余剰を財や富として蓄える人々のいる社会で遍在的な倫理になった、
強迫神経症的観念ではないでしょうか。
ワトリキには一人だけ、妻子をもたない独り者の中年男がいます。狩の名手らしい
もらっています。彼は言います。結婚したことはあるが、女は面倒だし働かなければ
ならないから一人がいい、食べ物がなければ誰かがバナナをくれる、と。どんな文明
社会でも病人や老人それに特権階級ならともかく、健康で働き盛りの庶民の男が、失
業中でもないのに週に5日も6日も仕事に行かないでごろごろしていたら、すぐに社
けたら、詐欺で投獄されるのでしょうか。シャボノの人々は、彼をとがめたり追い出
したりはしませんでした。(125-124頁)
死者の祭り(79頁)や作物ごとに収穫期の祭りがあって(110頁)、ワトリキでは祭り
の季節が二ヶ月以上続きます(79頁)。その準備は共同で行われますが、それも労働では
なく楽しみの一部です。留守番のためご馳走を獲る漁や狩の小旅行から外されるの
は、獲物はちゃんと分けてもらえるのに、みんないやなようです(72頁)。祭りの飲み物
を入れる大樽は森の奥で巨木を切り倒して作り、枕木のような枝を敷いて綱で引き、
2日がかりで運び出されます。運搬の途中にある坂道では、かわるがわる樽に上がっ
て滑走を楽しみ、「労働が遊興の場にな」ります。「運搬する間、森から歓声が途切
れることはなかった」と書かれています(81-83頁)。どんなにきつい作業でも、けして
労働にはなりません。貪欲に楽しむために、力を尽くし知恵を出しあうのです。
祭りの行事の一つに蔓を使う男女対抗の綱引きがあります。それを著者はこう描写
しています。「男が勝つだろうと思われるのだが、話はそう単純ではなかった。女に
加勢する男が現われ、劣勢の方に寝返る者も現われ、戦列を離れ休憩する者も現れる
からだ。」「男女はぐちゃぐちゃになり、敵も味方もなくなった。誰かが卑猥な言葉
を叫び、子どもたちまでもが笑った。・・・・・・ただただ、汗に塗れ、つばに塗れ、埃に
塗れるだけの時間が過ぎていった。」(99頁) 競技も勝つことが目的ではなく、時間を
かけてみんなの気持ちを溶け合わせるための手段です。楽しみは独りでふけるもので
はなく、他の誰かがいてこそです。 (「番外篇―ヤノマミ」終わり)