ガラスの氷紋様 ムダの効用 37

サイタマンさん、たしかにわたしがオジロ、オオワシを同じ画面に収めたのは初めてだと思います。冬は行って

いませんが、根室の湿地や羅臼の海岸にはどちらもたくさんいるそうです。向こうの人には珍しくないかも。

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 雪ではないんです。水蒸気が窓や玄関のガラスで直接昇華したものです。初めの2枚は東の窓、残りは北の

玄関。去年までは南のサンルームのガラスにできていましたが、今年は場所が変わっています。気候がちがっ

てきたのかなー。


                           〔ムダの効用〕

37 まつろわぬ者たち()
 
 ほとんどの史家が、おそくとも紀元前400年までに北九州に潅がい稲作が伝わって 

たことは、否定しないと思います。多くの研究者が、北九州への伝来はもっと早く、 

このころにはすでに瀬戸内海両岸・山陰・近畿でも行われていたと考えています。前章


で述べたように、縄文時代から大陸との往来は盛んでした。朝鮮半島には、紀元前2


年紀に殷王朝の流れを汲む王が立ったという伝説もありますが、おそくとも戦国時代に


燕王国の影響が及び、漢帝国楽浪郡帯方郡などの郡を設けたことは史実でしょう。


それらの圧力の下で、中国史書に記された倭王の時代に先駆け、いくつかの国家が興亡


し、階層化(支配層と一般民衆の分化)が進んでいたようです。稲作は半島経由で伝わっ


たという説が今は主流です。本州西部では、網野の言う「海民」はもちろん首長たちや


宮廷人も半島を、九州南部や東北・北海道よりなじみの深い近隣と感じていたと思いま


す。


 1970年代以後長江流域に古い稲作文明があったことがわかってきました。始まり


黄河流域の畑作文明より前である可能性も論じられています。かつては伝説と考えら


れていた夏王朝はこの地にあったという説もあります。しかし紀元前2千年紀以後の中


国南部は、華北起源の殷・周・春秋戦国・秦・漢などの王国や帝国に支配されていたよ


うです。これらの国は周辺の狩猟採集民・遊牧民を、南蛮、西戎、東夷、北狄の蔑称で


呼び、朝貢を強いたり征服したりすべき野蛮な民とみなようになります。


 中国だけでなく、西アジア、エジプト、インドでも、紀元前9千年紀から5千年紀の


間に食料生産が始まったと考えられています。これらの古代文明のすべてで、大規模な


土木建築と戦争が行われた跡があります。近年になって南米アンデス地方でも同じくら


い古い巨大ピラミッドのある遺跡が発掘されました。ここでは戦争の痕跡は見つかって


いないものの、生贄にささげられたと思われる人骨が残されているそうです。食料生産


に頼るようになった人々は、なぜ大神殿や死んだ王を祭る巨大な墓を建て、戦争や人身


供犠をするようになったのでしょうか。


 三内丸山には太い掘っ立て柱の痕跡はありますが、ピラミッドや古墳時代盛期の前方


後円墳に比べたらささやかなものです。わたしの知る限りでは、戦争または供犠で受け


た傷の残る縄文人骨や縄文時代の防御性集落跡が見つかったという記録はありません。


わたしは、最後の出アフリカから現在まで、ヒトの心は根本のところではたいして変わ


っていないと思っています。理由のない殺し合いをするようには脳ができていないと。


縄文人も友好的な集団に出会えなければ、略奪婚やレイプをしたかもしれません。しか


し相手集団を殲滅する必要はないでしょう。集団内で対立が生じることもあったと思い


ます。しかし、殺しあわずとも集団を去ればすむことです。狩猟採集は少人数でもでき


ますから。


 環境が厳しくなって縄張りをめぐる集団間の戦いが起きることは考えられます。しか


し狩猟採集民どうしの場合、劣勢でも逃げることなく全滅するまで戦うということはし


ないでしょう。集団規模が小さく、未開の地が広がっています。殺しあうより新天地を


求めて移動する方が低コストです。奴隷として使役するために相手集団を征服すること


も考えられません。自分であるいは仲間といっしょに狩漁採集や加工をし、自分たちで


飲食し着て飾り住む。生産と消費が一体になったそういう生活行為は、きつくても生き


る手応えを日々確認する喜びがあります。奴隷の使役は労苦と享受が分離している社会


でなければ無意味です。それに狩猟採集では、奴隷も自分が生きるのに必要とする以上


の物資は生産できません。


 人身供犠は首長や王の支配を根拠付ける超越的な神の観念ができた以後のことでしょ


う。アミニズムやその段階のシャーマニズムは、人と等身大の精霊に対する畏敬の念の


表現です。動植物は人に食物を与え、死んで繰り返し再生します。動植物は太陽や大地


や水や風と交感しています。人は循環する自然と渾然一体。自然の恵みを喜び、自然の


悪意に苦しみ、自然と取引して命をつなごうとする自然の一部です。きっとそのような


想いが結晶して、万物に宿る精霊の観念になりました。精霊は人々がくらすその地域に


棲み、そこでくらす人々と交感します。広域的な大集団に君臨する首長や王が、自分の


祖先として、あるいは自分に統治を託した絶対的存在として、民衆に服従を求める超越


的な神とはちがいます。


 狩猟採集民は小集団に分散して、必要に応じて移動・交流・交易しながら文化を築く


ことができます。実際、紀元前2千年紀以後は、三内丸山のような縄文時代としては大


きな集落は解体する傾向があり、文化も一時衰退したと言われます。気候の寒冷化が原


因のようですが、大きくなりすぎた集落をまとめる新しい社会原理を見出せなかったこ


ともあるかもしれません。それでも小集団に分かれた縄文人たちは、東北から北海道に


かけての亀ヶ岡式土器に代表される、はなやかとも言える縄文晩期文化を開花させてい


ます。


 ジャレド・ダイアモンドは、「農耕生活は、平均して、狩猟採集生活の10倍から1


00倍の人口を支えることができる」と書いています(302)。10倍として一人分の


食物消費量がそれ以前と同じなら、500人の農業生産者がいれば、生産者以外に45


00人を養えます。農民の扶養家族がその半数を占めるにしても、職人、商人、学者、


官僚、軍人、司祭、統治者などとその家族の2250人がくらせるということです。一


般に農耕牧畜が文明の始まりとみなされるのは、この高い生産性があるからです。34


章で見たように、縄文人も食用植物を栽培しています。しかし狩猟採集の片手間に行わ


れる栽培では、500軒の農家で人口5000人の集落を維持するほどの生産性は実現


できません。


 他所からその知識・技術が伝来した場合は別ですが、独自に農耕飼育を始めた地域で


は、生業の中心が狩猟採集から食料生産に移り変わるまでに、長い時間がかかっていま


す。ジャレド・ダイアモンドは、「数千年の時間を要している」と書いています(154


)。栽培に適した品種の発見・改良、その品種に合う耕地の選定・維持、水利潅がいの


整備、農業用具の発明改良など、世代を重ねて少しずつ知識・技術が蓄積されます。農


耕だけでなく牧畜にもほぼ同じことが言えます。狩猟採集の傍ら自然発生的に栽培飼育


が始まり、長い併用期間を経て、知識・技術が成熟してから重点の転換が起きたと思い


ます。


 占拠する地域の生物種・気候・地勢が栽培飼育に適していれば、転換が起きやすいで


しょう。しかし自然環境だけの問題ではないはずです。似たような条件下でも、狩や漁


の、あるいはそのままでは食べられない植物を食用に加工するための、道具、技術、知


識が進めば、あえてくらし方を変えなくてもすみます。伝統にこだわる気持ちが強けれ


ば、新技術の改善には積極的になれません。いろいろな事情で、同じ時期に原始的な食


料生産が始まった集団の間でも、きっと次第に方向のちがいが拡大します。


 農耕民は土地に縛られます。特定の植物を集中して栽培するうえで、気温・湿度・日


照・土壌・水利が適した土地は限定されます。まして潅がい設備・土壌・区画などを整


備改良し、鋤き起こして耕した田畑は、農民にとって自分(たち)の汗が染み込んだ財産


です。彼らとって、作物以外の草木や耕地を荒らす獣は駆除の対象です。遊牧民にとっ


ては、注意深く世話をして害獣から護ってきた家畜がたいせつな財産です。しかし、自


然経済しか知らない人々には、家畜や作物も狩猟採集の対象です。彼らは野生生物の豊


かな再生を望んでいます。作物を採取できず、家畜を狩ることができないのなら、それ


だけ自分たちの生活圏が狭められ、生活資源が減少することになります。だからきっと


農牧民は歓迎されません。

 農耕民と遊牧民の間でも利害が対立する可能性があります。一方は放牧された家畜か


作物を守りたいし、他方は餌場の草地が耕地として囲い込まれることを嫌います。さ

らに農耕民はすでに他人の労働が投下された耕地を奪うことで、遊牧民は他人が育てた

家畜を奪うことで、一挙に財産を増やすことができます。食料生産に頼るくらしは、原

理的には、はじめから戦争を孕んでいます。


 食料生産を発達させた社会は、生産性が高いので大きな人口と非生産者を支えられま


す。専業的な戦士団を擁し兵站を支えられるから、戦闘の傍らで狩猟採集民をしなけれ


ばならない人々を圧倒できます。同じく自然経済を脱した別な集団との戦いでも、他の


条件が同じなら、人口の多い方が有利です。それに領土を拡張する戦争は、人々の関心


を内部の争いから外に向けさせる効果もあります。古来多くの文明が、領土を広げより


多くの生産者を支配しようとする衝動に突き動かされて、戦争を重ねました。そしてバ


ンド・部族から、部族連合、首長社会、首長連合小国家、帝国などの大国家へと、集


団規模を拡大しています。中国では初期の畑作集落から、散在する防御性集落や城郭都


市などを経て、殷帝国に成長するまでに、5千年ほどの時間がかかりました。生産技術


を成熟させるだけでなく、大集団をまとめあげる新しい原理を確立するのにも、長い時


間が必要だったのだと思います。縄文末期に朝鮮半島を経て列島西部に、完成された知


識・技術・道具をもつ稲作が伝わりました。きっときびすを接して、社会を統合する新


しい観念と外に広がろうとする志向も。潅がい稲作渡来から倭王の時代まで、800か


ら600年ほどでしょうか。(続く)