冬の華やぎにさようなら 2  ガン告知(続)

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 枯れ草・枯枝に着いた白い氷も冬の華やぎです。新雪が作る雪花よりきりっとしています。旭川からオ

ホーツク海まで、明日から今週一杯予報欄に雪マークが付いていますが、最低気温が-10度を下回ると

ころはほとんどないので、冒頭の写真のような風景は多分今年はもう見られないでしょう。


          〔ガン告知とパターナリズム(続)〕

 (承前)ガン告知の問題に戻ります。こんな状況を考えてみます。主治医に患者の妻が、「夫は常々、回

復を望めないガンにかかっても、希望を失いたくないから知らない方がいい、と言っていました。ですか

ら、すぐによくなって退院できると思わせてもらえないでしょうか、」と頼みます。医者は、「あなたが責

任をもって患者を治療に協力させてくれるなら、病名告知は避けましょう、」と答えます。しかし実は、

患者は告知を望まないとは言っておらず、妻は夫が死期を知って遺言状を書くのを避けようと、医者にう

そを言っていた。妻は後妻で、夫は遺産を先妻の子に渡すつもりだと知っていたから。自分が受け取るは

ずの財産が、遺言でわずかな遺留分だけになるのを恐れた。

 あるいはこんな状況。医者は検査前の会話で、患者が余命を知りたくないと思っていることを確信でき

た。そこで家族に、「患者は告知を望んでいませんので、あなた方と話し合いながら治療に当たりたいの

ですが、いかがでしょう、」と提案し、家族がそれに同意する。家族は本人に代わって、手術、化学療

法、放射線療法のどれを選ぶか、どこで積極療法から保存的治療や緩和ケアに移行するか、衰弱したとき

人工心肺を使うか使わないか、延命・再生措置をいつ打ち切るか、などを決めなくてはならなくなりま

す。患者を本当にだいじに思っている家族にとって、決断する苦しみは深刻です。

 前の仮定では医者は犯罪まがいの企みに利用されることになります。そこまで極端でなくても、自分の

病気の現実を知らない本人に代わって家族が治療方針にかかわる場合、患者本人のことより彼の病気や死

をめぐる家族の利害・思惑が優先される場合はあるでしょう。後の仮定では、患者の苦悩は軽減されるか

もしれませんが、その分の、あるいはそれに勝る苦しみを、誰かが肩代わりすることになります。

 わたしの妻は他人に決定を委ねるなど考えもしない性質ですから、余命を知って、対応を自分で決めよ

うとしました。死後を信じていませんから、葬式は生者のための儀式と思いながら、わたしが慣習に反す

るやり方で非難されるのは避けようと、すべて故人の指示だと言い訳できるように書置きしています。そ

れでも、治療のことなどでわたしが医者に意見を言わなければならない場面もありました。そういうとき

心のなかに、「お前の判断は彼女のことだけを思った結果なのか、それとも自分の都合によるものなの

か、」という問いが生じたことがあります。悪意はないつもりでも、純粋に相手を思いやる気持ちとエゴ

イズムを分けにくいことがあります。もし最後まで告知が行われず、わたしが決定的な判断を委ねられた

ら、喪失感に自分の判断に対する疑念が加わって、苦悩に耐え切れなかったことでしょう。

 普通のくらしの中で甘えることが好きな人も、甘えられて喜ぶ人もいます。わたしは経験がないのでわ

かりませんが、ペットとの関係にもそういう面があるのでしょうか。家族や男女などの一対一の性的関係

では、甘えの情緒的交流があってもいい。しかし自分に関する重要な決定を、他人に依存したり依存させ

たりする習慣の中で育つと、自立心が乏しく、独りに弱い性格が助長されると思います。

 「アイツのことはオレが一番よく知っている。アイツのためにオレが決めるんだ」は、悪意の隠れ蓑にな

ることもあります。「そんな深刻なことは自分で決められない。あなたが決めて」が、苦しみを他人に押し

付けるエゴイズムになることもあります。一途に患者の気持ちだけ考えられる。迷いや悩みはすべて引き

受け、どんなに重くても笑顔で患者を支えきる強さがある。患者はすべてをその人に委ねて安心してい

る。そういう関係ができている間柄なら、告知してもしなくてもいいと思います。でもそれは、わたしの

ような小人には到底望めない境地です。