鈍(にび)色の川・氷の花

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 厳寒期の早朝、美幌川が鉛のようなどんよりとした表情を見せることがあります。その岸では、昇りか

けた陽を受けて、枯れ草に咲いた氷の花がきらきら輝いていました。この日から1ヶ月以上過ぎていま

す。まだ寒の戻りがあるかもしれませんが、全体としては日に日に春の予感が強まっています。


〔思想としての科学 2〕
 
 心の支えを宗教に求める人は世界中にたくさんいるだろう。多くの場合、信仰の対象は時間を超えて存

在し、広大無辺な知を行使する神仏である。超越的な存在に照らして自意識を相対化することで、不安や

苦痛を和らげることができるからではないかと思う。現代科学もまた、個人を相対化する視点を提供す

る。

 最新の宇宙論ではわたしたちの宇宙が誕生してから137億年。地球史が示す地球生命の時間は35億

年以上。人類学が推定する人類の年齢は500万年から700万年。個人の生涯時間を100年とすると

その幅は、宇宙年齢の1億3500万分の1、生命進化時間の3500万分の1、人類史の5万分の1か

ら7万分の1である。       

 宇宙の観測可能な領域だけで1,000億の銀河があり、ひとつの銀河、例えば天の川銀河には、1兆

以上の恒星がある。そのひとつである太陽の周りを回る惑星地球の表面という、とても限られた空間にひ

しめきあってわたしたちは存在している。死者生者合わせて現生人類の個体数は百数十億人。一人の重み

は全人類の百数十億分の1。信仰者は広大無辺な神に照らして、自分の卑小さを悟る。

 人の身体は、動植物の器官・組織に似た部品で構成されていて、菌やバクテリアに通じる細胞の集合体

である。わたしたちが生まれ、育ち、生活を営み、社会を作ることができるのは、身体の内と外にさまざ

まな化学反応があるからだ。人は化学変化の一部を管理して利用できるが、変化をつかさどる自然法則は

改変できない。体も体を作り上げている素粒子も、全宇宙の物質やエネルギーに及んでいる重力法則や波

動関数に支配されている。わたしたちは自然の小さな部分である。自然法則は、信仰者が従順を誓う超越

的な神の意思に似ている。

 伝統的宗教には2000年以上前に起源したものもある。科学が思想の名に値する内実を備えたのはご

く最近だ。かのアイザック・ニュートンは、厳密な重力法則と荒唐無稽な天上界想像図の両方を信じてい

たという。現代でもまだ、細分化された専門分野以外に関心がなく、思想としての科学に出会うことのな

い理系職の人が、きっと少なくない。医学、理学、工学などを学んでオーム真理教の幹部になったのは、

そういう人々だと思う。

 思想としての科学はまだ若く、宗教ほど信頼されてはいないが、宗教にはない可能性を秘めている。神

は全知全能ですべてを決定しているとされる。科学は自分の知の限界を知っている。いまは定説になって

いること、確率でしか表現できないこと、ほとんどまたはまったくわからないことを区別する。実験、観

測、数学論理、コンピータ・シミュレーションなど、客観的手段で検証できない対象は、守備範囲の外に

あるとあらかじめ宣言している。宗教は権威の起源が過去にあって、教義・経典に縛られ、変化に対して

身を閉ざしがちだ。科学は、確立された理論から出発しても、新たに客観的根拠を見出し、理論を修正・

更新し続ける。権威は過去からではなく、新たに付け加えられる客観性から生じるから、変化に開かれて

いる。

 信仰心の厚い人が経典にすがるように、神を信じないわたしは、科学の語りに耳を傾けて安らぐ。科学

思想の教会には司祭も神父もいない。多様で深い科学の知から、何を自分の人生哲学に取り込むかは、一

人ひとりに委ねられる。ただ、科学思想と自分の幸せな出会を、学習者に語ることのできる教師・科学コ

ミュニケーターが多くなるといいのに、とは思う。(終わり)