知床の鹿 日本の右傾化 6
知床でたくさんの鹿を見ました。最初の四枚は知床五湖からウトロに下る途中で出会ったメスや仔の群
です。後の二枚は羅臼の市街地で遊んでいたオスです。今年知床岬で、メスを中心に銃で駆除することが
決定されたとか。陸上輸送できない場所ですから、その死骸の多くは放置されることになりそうです。
〔日本の右傾化 6〕
個人にとって現実感のある時間の幅はどんな範囲にあるのだろう。日を浴びて炎天下に立っていたり、
防寒具なしで零下の寒気に身をさらしていたり、空腹に苛まれていたり、異性への思いに身を焦がしてい
たりする時間には、人を行動に駆り立てるリアリティーがある。恋人と一週間過ごす機会を与えられた人
や、余命半年を宣告されたがん患者は、生きている感覚が濃縮される一週間や半年を予期しているにちが
いない。受験生には一年後の入試結果が、2年後の定年退職を控えたサラリーマンには年金生活の設計
が、切実に意識されているだろう。身に降りかかる大きな変化が予想されていれば、そのときまでの時間
がリアルである。一方何の変化も期待できない惰性のような生活に閉じ込められている人には、半年先さ
えあいまいな時間と感じられるかもしれない。
現実感のある時間の幅は、年齢、環境、志など、それぞれの人によってさまざまである。それでもたい
ていの人は、50年前や50年後のくらしのイメージにはあまり切迫感がない。100年、200年先の
人類、国、子孫を心配したり期待したりするのは、意識して考える観念の作業だ。自然科学者のなかに
は、一万年先の地球環境を真剣に研究する人がいるかもしれない。だがそれは生活実感とはちがう知的営
みである。意識から遠ざけにくい現実的な感覚が付きまとう時間は、最長でも個人が仮想する生涯時間を
越えないのではないか。
明日来ると予報されている大型台風は、本気で恐れできる備えはする。いつまでも結婚できない子ども
のことは、胃が痛くなるほど心配する。しかし、温暖化がもたらす100年後の地球のイメージは、自分
が受給するはずの年金のことより現実感がない。復古的な教育改革や戦争できる国に変える憲法改定など
も、身の回りのくらしほどにはリアルではない。だが個人の生存時間は、自然や歴史の時間に比べると、
はかなくも短い。古来人々は、宗教・人類・国家・一族の名声、家名など、個人の生涯を越えて持続する
何かの観念によって、短い個人時間と悠久とも見える自然時間のギャップを埋めようとしてきた。
温暖化や憲法などは、伝統的な宗教や思想と同じく、あえて選択しなければ行動につながらない、抽象
的な観念体系に属する。それでも戦後30ほどの間の日本の民衆は、核実験、再軍備、労働運動、治安政
策、東側諸国との関係などの、長期ビジョンを伴う国家的決定に、自分の個人生活とのいまよりは強い関
連を感じていた。ところが最近の経済先進国では、伝統宗教が風俗習慣以上には個人の心をとらえきれな
い。家名や一族の系譜などにも価値を置かない人が増えている。そして、戦時下のくらしが遠い思い出に
なり、身の回りでは飢えがまれな例外になった。国家ビジョンにもとづく政治的決定を、生活からはなれ
た知的ゲームのように感じる感性が増殖する。個人を超える時間軸を生活に持ち込む既成の装置がうまく
働かなくなった。共同的なものが剥離して、個人的な時間感覚がむき出しになる。「はかなさ」の感覚か
ら自分を防御するのは自分の責任。自分で自分を支える観念世界を作り出すことができなければ、日常生
活の喜怒哀楽だけがすべてである。
それなのに経済の情報・サービス化が進み、生活条件の浮沈・変化のサイクルが加速度的に速くなって
いる。昔の農業なら、灌漑を整え、土を肥やし、新田を開墾し、来年、10年後、20年後、あるいは子
孫の代に、豊かな実りを期待するくらしもあった。終身雇用・年功序列を核とする昭和期の会社なら、定
年までの自分と家族の人生をある程度設計できた。いま30歳までの若い人には、就職氷河期を経験した
り、3年未満で職を変えたり、キャリアーを積んでよりよい待遇を求めて職場を変わったり、フリーター
や派遣以外に就業機会がなかったり、ボランティアや趣味で生きがいを探したりが、身の回りの珍しくも
ない現実である。くらしの格差は拡大しているが、収斂してマスとしての階級・階層に行き着くわけでは
ない。個人の生育環境、努力、才能、意欲、考え方、好みなどで生活意識が分散して、時代を代表するよ
うなヒット曲も生まれなくなった。
共同的な観念が力を失って、宗教や思想があなたやわたしの思いつきや妄想と等価になった。個人生活
のリアリティーが露出しても、暴力的な死や集団的な餓えや労働の肉体的苦痛からは切り離されて、個々
人に拡散している。時代の共通な記号としては、カネだけしか残らないのかもしれない。大人になれば
「選択するのはあなただよ」と言われて、結果としての不幸も個人責任とされる。だが多くの人は、自由
に選択しその結果を引き受ける練習の機会を与えられないまま成人している。見通しの開けない自分の日
常への苛立ちを、個人的な好みでゲームや着メロを選ぶように、オカルトや過激ナショナリズムに短絡さ
せる人も増える。ゲームや音楽は個人で楽しんでもいいが、観念体系は同調者を求める。議論の作法が身
についていなければ、強引な論理や異質な他者への罵倒を多用するしかない。彼らの多くは育ちのなか
で、理不尽な強制や恫喝の被害者になる体験をしている。
保守的な政財界人・言論人・教科書の戦後否定・戦前思想復活の仕掛けが、若者の右翼的心情を作り出
しているわけではない。ただ、彼らが右翼思想と出会う機会を増やしているだけだ。(つづく)
です。後の二枚は羅臼の市街地で遊んでいたオスです。今年知床岬で、メスを中心に銃で駆除することが
決定されたとか。陸上輸送できない場所ですから、その死骸の多くは放置されることになりそうです。
〔日本の右傾化 6〕
個人にとって現実感のある時間の幅はどんな範囲にあるのだろう。日を浴びて炎天下に立っていたり、
防寒具なしで零下の寒気に身をさらしていたり、空腹に苛まれていたり、異性への思いに身を焦がしてい
たりする時間には、人を行動に駆り立てるリアリティーがある。恋人と一週間過ごす機会を与えられた人
や、余命半年を宣告されたがん患者は、生きている感覚が濃縮される一週間や半年を予期しているにちが
いない。受験生には一年後の入試結果が、2年後の定年退職を控えたサラリーマンには年金生活の設計
が、切実に意識されているだろう。身に降りかかる大きな変化が予想されていれば、そのときまでの時間
がリアルである。一方何の変化も期待できない惰性のような生活に閉じ込められている人には、半年先さ
えあいまいな時間と感じられるかもしれない。
現実感のある時間の幅は、年齢、環境、志など、それぞれの人によってさまざまである。それでもたい
ていの人は、50年前や50年後のくらしのイメージにはあまり切迫感がない。100年、200年先の
人類、国、子孫を心配したり期待したりするのは、意識して考える観念の作業だ。自然科学者のなかに
は、一万年先の地球環境を真剣に研究する人がいるかもしれない。だがそれは生活実感とはちがう知的営
みである。意識から遠ざけにくい現実的な感覚が付きまとう時間は、最長でも個人が仮想する生涯時間を
越えないのではないか。
明日来ると予報されている大型台風は、本気で恐れできる備えはする。いつまでも結婚できない子ども
のことは、胃が痛くなるほど心配する。しかし、温暖化がもたらす100年後の地球のイメージは、自分
が受給するはずの年金のことより現実感がない。復古的な教育改革や戦争できる国に変える憲法改定など
も、身の回りのくらしほどにはリアルではない。だが個人の生存時間は、自然や歴史の時間に比べると、
はかなくも短い。古来人々は、宗教・人類・国家・一族の名声、家名など、個人の生涯を越えて持続する
何かの観念によって、短い個人時間と悠久とも見える自然時間のギャップを埋めようとしてきた。
温暖化や憲法などは、伝統的な宗教や思想と同じく、あえて選択しなければ行動につながらない、抽象
的な観念体系に属する。それでも戦後30ほどの間の日本の民衆は、核実験、再軍備、労働運動、治安政
策、東側諸国との関係などの、長期ビジョンを伴う国家的決定に、自分の個人生活とのいまよりは強い関
連を感じていた。ところが最近の経済先進国では、伝統宗教が風俗習慣以上には個人の心をとらえきれな
い。家名や一族の系譜などにも価値を置かない人が増えている。そして、戦時下のくらしが遠い思い出に
なり、身の回りでは飢えがまれな例外になった。国家ビジョンにもとづく政治的決定を、生活からはなれ
た知的ゲームのように感じる感性が増殖する。個人を超える時間軸を生活に持ち込む既成の装置がうまく
働かなくなった。共同的なものが剥離して、個人的な時間感覚がむき出しになる。「はかなさ」の感覚か
ら自分を防御するのは自分の責任。自分で自分を支える観念世界を作り出すことができなければ、日常生
活の喜怒哀楽だけがすべてである。
それなのに経済の情報・サービス化が進み、生活条件の浮沈・変化のサイクルが加速度的に速くなって
いる。昔の農業なら、灌漑を整え、土を肥やし、新田を開墾し、来年、10年後、20年後、あるいは子
孫の代に、豊かな実りを期待するくらしもあった。終身雇用・年功序列を核とする昭和期の会社なら、定
年までの自分と家族の人生をある程度設計できた。いま30歳までの若い人には、就職氷河期を経験した
り、3年未満で職を変えたり、キャリアーを積んでよりよい待遇を求めて職場を変わったり、フリーター
や派遣以外に就業機会がなかったり、ボランティアや趣味で生きがいを探したりが、身の回りの珍しくも
ない現実である。くらしの格差は拡大しているが、収斂してマスとしての階級・階層に行き着くわけでは
ない。個人の生育環境、努力、才能、意欲、考え方、好みなどで生活意識が分散して、時代を代表するよ
うなヒット曲も生まれなくなった。
共同的な観念が力を失って、宗教や思想があなたやわたしの思いつきや妄想と等価になった。個人生活
のリアリティーが露出しても、暴力的な死や集団的な餓えや労働の肉体的苦痛からは切り離されて、個々
人に拡散している。時代の共通な記号としては、カネだけしか残らないのかもしれない。大人になれば
「選択するのはあなただよ」と言われて、結果としての不幸も個人責任とされる。だが多くの人は、自由
に選択しその結果を引き受ける練習の機会を与えられないまま成人している。見通しの開けない自分の日
常への苛立ちを、個人的な好みでゲームや着メロを選ぶように、オカルトや過激ナショナリズムに短絡さ
せる人も増える。ゲームや音楽は個人で楽しんでもいいが、観念体系は同調者を求める。議論の作法が身
についていなければ、強引な論理や異質な他者への罵倒を多用するしかない。彼らの多くは育ちのなか
で、理不尽な強制や恫喝の被害者になる体験をしている。
保守的な政財界人・言論人・教科書の戦後否定・戦前思想復活の仕掛けが、若者の右翼的心情を作り出
しているわけではない。ただ、彼らが右翼思想と出会う機会を増やしているだけだ。(つづく)