斜里山ろくの埋葬跡

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 道東の道路は平地では広大な耕地や牧場を貫いて伸びています。道路が集まる場所には、海産物や農産物が集積され、人が集まって住み、商業、建築業、サービス業などが始まり、都市ができていきました。でも道が山に入ると、一枚目の写真(標津と斜里を結ぶ国道244号の一部)のような、うっそうとした森林のなかを走りつづけることになります。開拓が始まる前の昔はきっと、北海道全体がこんな森林や湿地に覆われていたのでしょう。そこで人々は、クマ・シカ・ワシなどの動物や、シャケ・サンマ・貝などの海や川の魚介類や、ギョウジャニンニク・フキ・コゴミ・ベリー類・ハマナスの実などの植物を食料にしたり、動植物と交感したりしながら、1万年以上くらし続けました。
 オホーツク沿岸地方も、いたるところで古代遺跡が発見されています。本州の縄文人たちと交流していた人たちもいるようです。コーカソイド系(白人)で、やがて北海道を去ったか、モンゴロイド系と混血して拡散したかして、痕跡が絶えた人たちもいるようです。山の獲物、海の産物、石器材料の黒曜石などの交換は、何千年も前から行われていといわれます。もちろん今のように車で移動するわけはなく、何日も何十日もかけて、森や原野のふみ跡のような道をたどって、自分の足で歩きとおすわけです。ホッと一息つけるような開けた場所で、よく交換が行われたでしょうから、今の都市やその周辺には比較的大きな集落ができたかもしれません。
 二枚目の斜里岳を望む写真は、海岸線から2キロちょっと山に向かって西へ進んだ平地で撮りました。ここに、見た目で直径40メートルほどの真円に近い土塁に囲まれた敷石の遺跡が二つ残っています。出土品は斜里の郷土博物館に収納されているそうです。開館まで2時間半以上あるので、残念ながらわたしは見れませんでした。海からも山からも近い平坦な土地ですから、集落は大きかったのかもしれません。開拓の途中でほとんどの遺跡が失われて、いまは埋葬跡が二つだけ残っているのでしょうか。
 明日は知床半島ウトロ側海岸とオシンコシン滝の写真を見てもらいます。