フィンランド・モデルは好きになれますか 20

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第一部
 今日の写真は大山山頂の彫刻群のなかから2点を撮ったものである。

第二部
         フィンランド・モデルは好きになれますか 20
3 フィンランド人の精神生活
 ここまで見てきたように、フィンランドと日本では、税、社会福祉公的年金・保険、教育、子育て支援、労働などの制度がちがう。この章では、制度のちがいを生み、また制度のちがいに影響される、両国の人々の考え方や気持ちのあり方を比較してみる。吉本隆明は『老いの超え方』(朝日新聞社)のなかで、社会のなかの個人と、個人としての個人の、区別がだいじだと言っている。わたしは、前者を公に対する私、後者を公が干渉せず公を参照しない私と解釈して、この章に二つの節を立てる。節の表題は当初のプランから変更されている。資料はГ鉢┐任△襦

(1) 社会のなかの個人
〔「和」の本質〕
 日本留学を経験したフィンランド人、ペトリ・ニエメラは、放課後のクラブ活動や同窓会を例に、同級生や会社の同僚について、「日本人の共同意識の強さにいつも感心している」と言う()。そして、フィンランドは将来、「個人主義が一層強まると懸念されている」、と。さらに彼はこう主張する。「日本人はいつも「和」を求めているから、他人に笑顔で接することが多い。」「他人との和を求めているから、日本人は自分の意見をはっきり言えないと批判されている。しかし、相手の気持ちを考えずに意見を明確に言うことははたしていいのか。西欧人の意見をどうどうと述べるやり方は、確かにいい面もあるが、相手を傷つけることがよくある。」
 ニエメラにはわかっていない。「和」の本質は、親和的な序列秩序であって、同格者の親和ではないことが。「暖かい家族」、「仲のいい兄弟姉妹」、「家族的な職場」、「恩師と愛弟子」、「面倒見のいい親分と忠義な子分」、どの場合にも、庇護するものとされるもの、命令するものとされるものが、お互いの位置の上下を承認して、安定した関係になる。同級生や会社の同僚の二人でも、どちらが上かという探りあいがある。日本人は序列承認の証しとして笑うことがあるのだ。劣位者の仏頂面から、関係を逆転させる叛意を疑われるかもしれない。優位者の笑顔は庇護関係受容のサインになる。上下を決めるのは、地位であったり、収入であったり、心理的関係であったり、さまざまである。男と女、教師と生徒などの間でも、優位と劣位がはっきりしない関係は安定しない。フィンランド人のニエメラには、平等が特に意識されることもないあたりまえの前提としてある。だから日本人の笑顔を同格者の親和と誤解する。
 日本人は礼儀正しいと言われる(ことがあった)。日本的礼儀作法はマナーとはちがう。前者は序列にもとづく、内面にさえ入り込む規範である。後者はパブリックな場面での振る舞いのルールであって、プライヴィットなところでは無視していい。わたしはマナーに反したくはないが、礼儀作法は自分を不自由にさせるから嫌いだ。わたしはきっと、かつては少数だった無礼な日本人の一人なのだろう。

〔職務・職階秩序と序列秩序〕
 ゲルマン系西欧諸国の中世身分制度には二つの起源がある。一つは家父長制的なラテン古代からのもので、キリスト教とともに浸透した。もう一つは親族団の格の違いにもとづくゲルマン古代からのものである。北欧諸国では前者より後者の影響が大きい。ゲルマン的身分制度には、出生の同格の原理が含まれている。同じ父と母から生まれたものどうしは、年齢にかかわりなく、原理的に同格なのである。拡大されると、同じ祖先につながる親族団メンバーの同格になる。兄弟姉妹が同格だから、その子ども世代は同格集団になる。原住故土を離れて遠征したり征服地で建国したりすると、親族団が分解し、軍事的な位階制が身分に変わって、親族団の団結と親和は崩れていく。だが出生の同格が完全に消えるわけではない。原理的に同格なものの間で、王との距離、本人や従者団の武力、支配する土地の大きさなどで、地位を競うのである。身分制度が消滅した現在、原理的に同格なものの間で、能力と努力で地位を競うという、経済の原則が現れた。
 出生の同格から血縁的要素を取り除いて、後に残る同格の意識は、peer(ピア=貴族、同僚、同輩、同等者)の概念に近いような気がするが、どうなのだろう。
 フィンランド人の起源はゲルマン系ではないらしい。しかし、文化的にはスウェーデンの影響が長く、戦後は意識的に北欧諸国やEUの思考方法に倣おうとしてきた。そして、90年代の不況から脱するために、グローバルな競争原理を受け入れている。出発点は平等だが、公平な競争で成果に差が出るのは当然。人格的には同格だが、職階による、指揮するものとされるものの役割分担は認める、ということだ。
 日本など儒教の浸透した国では、序列にもとづく秩序が発達し、同格という意識が拠るべき根拠がなくなる。その影響は今でも日本人の無意識のなかに残っている。それをわずらわしく思うあまり、すべての上下関係を否定したがる人もいる。だが、職務上の地位にもとづく、指揮する・されるの関係を否定したら、混乱しか残らない。議決機関なら対等な議論が認められる。執行機関では統率が必要だから、指導者に決定権が与えられる。しかし現代的な公の場面では、上位者の権限の範囲は法あるいは契約で明確に定められていて、個人としての個人の内面は保護される。序列関係では上位者の恣意が働く余地が大きく、個人としての個人との境目はあいまいになる。
 (この項続く)