鷲が舞う ④

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 どうしてわたしは大鷲や尾白鷲にこんなに心を惹かれるのかなー。その大きさが目立つこともあるけど、ともに

冬の北海道で千羽台しか見られない絶滅危惧種ということも、理由なのでしょうね。トンビやカラスみたいにどこ

にでもたくさんいるとしたら、もっと無関心かも。彼らが生きられる自然環境がいつまでもつのか、心配です。


政治の現在と未来についての感想 8
             ――― 生きている実感が希薄に()
 
 わたしは寿命を削ることになるだろうと知っていますが、タバコをやめようとは思いません。子育

が終わり、仕事を引退し、70を過ぎた身です。長生きしようと意識せず、食べたいものを食べ、
 
読みたいものを読み、見たいものを見て楽しくくらしています。10年ほど前親戚がわたしの息子に、

「お父さんのタバコをやめさせなさい」と言ったことがあります。息子の返事は「生きる楽しみなのだから、

それはできない」というもの。もっともタバコ嫌いの息子は、自分のそばではけして吸わせませんでした。

いまは一人ぐらし。家の中で吸う分には誰の迷惑にもならないはずです。その日々の満足に陰が射す場

面の一つが、タバコを買い足すときです。値上げにつぐ値上げで、いまやそのタバコ代が食費をだいぶ上

回り、乏しい蓄えを容赦なく奪います。「たばこ銭」が小銭の言い換えだったのはもう昔のこと。値上げは

原価の高騰によるものではなく政策的なものです。「タバコは健康に悪いし、医療費を膨らませるから、

やめなさい」という公的イデオロギーが我が家のなかまで侵入して、わたしの不幸を作り出しています。

 数日間のことですが一度だけ、まったく吸わなかったことがあります。4年前大腸ガン切除の手

術を受けたときです。看護師さんの、「吸い続けて術後に咳をすると傷口が痛いですよ、」の一言

で、その場面がありありと目に浮かび、術前24時間禁煙。術後は体調が整うまでまったく吸いた

くなかったのに、喫煙室まで歩けるようになると辛抱できなくなりました。自分の体の必要に迫ら

れれば、わたしでもやめられるようです。もし息子たちと同居するような事態が起きたとして、孫に「おじ

いさん臭い」と言われたら、やめようとして悩み苦しむかもしれません。「私ごと」の領域で自分の身体や周

りの人と対話しながら悩んだり苦しんだりするのは、生きている実感そのものです。そこで公的な制度や

価値観に介入され、ある選択を強制されると、身体を縛られるような不自由を感じてしまいます。

 2月2日の朝日新聞に「不快な暖炉の煙 法規制望む」という投書が掲載されています。近所の家から流

れてくる暖炉の煙の臭いに不快になる。「精神的苦痛による被害」がぬぐえないので、住宅地の暖炉設置

を法的に規制してほしいという主旨でした。わ が美幌町 では、薪ストーブも暖炉もだいじょうぶですが、庭

で落ち葉や古い手紙を焼いたりすることは禁じられています。わたしは結婚前に妻と交わした手紙を庭で

燃やせたらいいのに、と思っています。煙に気付いた近所の人が寄って来て、「火の粉を飛ばさないでくだ

さい」と言うかもしれません。わたしは手元のバケツの水を見せて、「気をつけています」と答えるでしょう。


そこから妻との出会いなどの話になるかもしれません。燃える炎は見つめる人の気持ちをしみじみさせる


効果がありますから。消防署の人に聞いたら、「そんなことをしたらすぐに近所の人に通報されますよ。シ


ュレッダーを買って、町のゴミ処理条例に従って処分してください」という返事でした。いまは、トラブルを予


防・解決するのは法や制度の責任と、行政も住民も考える時代になっているのですね。わたしのように、


それでは生きている実感が希薄になると思うのは、「変な人」なのでしょう。ところで、学校でも会社でも街


でも、「変な人」にならないための努力に疲れ果てる人がずいぶんいるような。


 この宇宙では有機物は希少であり貴重品だと、わたしは思っています。ですから、いまやヒトの身体は

地球上の有機物のかなりの部分を占めるのに、死体を火葬し空しく無機物に変えていいのだろうか、と。

せめてわたしの屍は森に埋め、水芭蕉か山桜の花に再生させてもらいたいものだ、と。でもわたしのこの

願いは、遺体の処理を細かく定めた法に阻まれて実現しないでしょう。わたしたちが生きている社会では:

自分の幸せを自分のこととして喜ぶのではなく、誰かのおかげだと感謝しなければならないようです。自分

の不幸を自分のこととして苦しみ、もがき、慰めあい、嘆くのではなく、法や制度や公共倫理が不備である

と声を上げなければならないようです。すなわち、胎内から墓場まで「公」がこと細かにまとわりついて、生

きる現場である「私ごと」の豊かさを吸い取っている、そういう社会です。そこで満足して幸せでいるのはと

ても困難。かの投稿者に、「法的規制」を望む事柄がエンドレスに現れないといいけど。(明日に続く)