鷲が舞う―大鷲

タムラ、畳んでいるとかわいらしく見える脚だけど、あれで大きなシャケをがっしり掴んで空に舞い上がったり

もするんだろうね。


 そらさん、撒かれた魚をゲットする瞬間が撮れなくて残念でした。すばやく飛び交う空の鷲を追うのに精いっぱ

いで、低いところまで注視できなくて。

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 シリーズ・阿寒の鷲は最終回が空高く舞う大鷲です。彼らは鶴・尾白・鳶・烏が魚を取り合う上空を大きく旋回し

ながら、上昇してきた鳥から横取りするチャンスを狙っています。同じ高さで尾白鷲とのツーショットが撮れれ

ば大きさを比較できるのにね。羽を広げると2メーター50センチほどと言われるから、尾白より50センチほど大

きいようです。白い尾羽もよく目立ち、昔は矢羽として武人の垂涎の的だったとか。


政治の現在と未来についての感想 9

             ――― 生きている実感が希薄に(承前)

 

 愛のないセックスはいや。でもそれは自分の価値観だと思っていれば、奔放な友人にお説教し


たりはしません。しかし心の奥に「奔放なのは人として望ましくない」みたいな気持ちがあると、中


学生の息子が隠しもつアダルトDVDを見つけたとき、母親として何か言いたくなります。高校生の


娘が、連れてきたボーイフレンドと部屋で二人きりにならないように、気を使います。彼女は、夫や


友達にこう言っているかもしれません。「息子には愛とは何かわかる歳になってから、浮ついたと


ころのない娘と結婚してもらいたい。娘は男に遊ばれたり男と遊んだりせず、頼りがいのある誠実


な男と結婚して欲しい、親なら誰でもそうでしょう」と。「親なら誰でもそうでしょう」は、彼女が心の


なかに受け容れている性イデオロギーが言わせる言葉です。


 現在は欧米などに、性的表現や婚外性関係がずいぶん開放的になっている地域があります。


そういう地域では性表現の法規制がなくなり、婚外性関係が民事以外では罰されなくなっていま


す。そしてその他の地域でも、実際の婚外性愛は以前より活発になっているようです。無意識に


刷り込まれた抑圧は性愛を歪めます。性的抑圧から心が開放されるのはいいことです。しかし今


でも、子どものころ禁忌の意識を刷り込まれた大人はけっこう多いと思います。だからポルノショッ


プなどで見かける性表現には、江戸時代ののびやかな混浴や枕絵などとちがい、人本来の性愛


からの「異常」な逸脱が溢れています。大人の合意による自発的な性行為であれば、どんな「異


常」も非難しようとは思いません。そのわたしでも、子どもには見せたくないものが多い。将来いつ


か、「愛」というイデオロギーによる抑圧がなくなって、器質的な異常以外の逸脱がなくなれば話


は別です。


 性愛、親和、結婚の性的三要素は容易に重なりません。それぞれが食いちがう場合が多く、そ


のたびに葛藤が生まれます。そしてその葛藤の形はカップルの数だけあり、類型化が困難です。


狩猟採集主体のバンドや部族、あるいは江戸時代の民衆は、互いの事情をよく知る人々が「私ご


と」の共同圏を作っています。その場合は、葛藤が深刻になりそうであれば、小さな世論のような


噂話、それを背景にした親族や長老の助言、暴力沙汰の抑止や収拾などの形で、周りの人々が


かかわってきます。性にまつわる葛藤は私的共同圏の重要なテーマです。人々は事件を語りあ


い、自分の経験を重ね合わせながら、他の人と共通な価値観、食いちがう価値観を確認します。


語りあいは共同圏の絆を活性化し再生させる上で、欠かせない共同行為です。だから性的葛藤を


抑止したり、なかったふりをしたりしてはならないのです。


 今はどうでしょう。私的共同圏は消滅しています。おおかたの家族はほとんど形骸だけになって


いて、過剰な干渉をするか、見て見ぬふりをして放置するかです。葛藤のなかにあるカップルは、


自分たちだけで解決しなくてはなりません。それが困難なときは、進んで、あるいは抜き差しなら


ない争いの結果として、公共的な機関に頼ることになります。家庭裁判所の担当官、民間シェル


ター運営者、警察官、そして付き添う弁護士も(親しい顧問弁護士などでなければ)、彼や彼女の「


私ごと」とは無関係な他人です。彼らは法の「公平な」運用と「良風美俗」の維持は心がけても、彼


や彼女の葛藤に特有なリアリティーには寄り添ってはくれません。公的なものに頼るのは地縁血


縁の共同体が崩壊したからという論を、ときどき目にします。しかし歴史的には逆です。資本主義


経済と中央・地方の公共組織、そしてそれらを支える公的イデオロギーが「私ごと」の領域へ侵入


したのが先で、その果てに個人がばらばらになったのです。公的イデオロギーは葛藤の抑止・予


防を目指します。その結果としての、例えば「愛」という観念は、渇いた人に与えられる塩水のよう


に、ますます渇きをつのらせることになります。現代人は公的イデオロギーと制度に「私ごと」のリ


アリティーを奪われ、満たされない気持ちに苛まれています。(続く)