馬鈴薯の花 ムダの効用40-4

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 昨日根室から浜中にかけての太平洋沿いを走りましたが、このあたりと雰囲気がちがいます。低い樹がまばら
 
に生えた原野が多く、田畑より牧場が目立ちます。女満別・美幌・北見あたりは、一歩郊外に出れば耕地が広が
 
っています。いま田園を彩るのはは黄色く稔った麦とジャガイモの花。
 
 
                 〔ムダの効用〕
 
40 まつろわぬ者たち(74)
田畑は労苦に耐えて日々注意深く維持しなければ、野生動植物の侵害や自然災害ですぐに荒廃します。本格的な農耕は収穫期以外、狩猟採集のような直接的な喜びより苦痛のほうが大きい営みです。外的強制力、食料の欠乏、貧困などに追い詰められなければ、農民はむやみに生産を拡大しようとはしないでしょう。拡大を望むのは余剰を収奪する支配層です。彼らは農民に、自分たちの消費を必需消費ぎりぎりまで圧縮し、農地を増やし、生産性を向上させるように求めます。つい半世紀ほど前まで、日本の農村は節約と勤勉を強いる倫理の重圧下にありました。しかし60年代以後、農業は主要な剰余生産分野ではなくなりました。そして一般農民も消費市場拡大に狂奔する経済の波に呑み込まれ、自ら地位的財を購入できる効率を求めます。もう倫理として節約・勤勉を強いることに意味はありません。
どの大陸でも、外から波及したのではなく独立に農耕が始まった地域では、生産力が向上し支配階級が育ち文明が始まるまでに、長い時間がかかっているようです。生産技術の向上に時間が必要だったというだけでなく、従来のくらしが継続できる土地では農耕の拡大に魅力がなかったことも理由でしょう。地位的財への欲望にとらわれなければ、生活満足度が生産行動選択の基準になります。食料生産とその消費が階級的に分離するまでは、必要以上の効率向上に努める動機がありません。北海道や東北には、寒冷化しても小集団に分散して移動しながらくらせば、何とか生きられる環境がありました。だから東北の北部・中間地域では、弥生中期以後に気候の寒冷化で稲作の困難が増すと、稲作維持にこだわらず、狩猟採集の比重が大きい続縄文のくらしに戻ったのだと思います。
比羅夫船団が東北・北海道を訪れたのは、この地が続縄文文化から擦文文化に移行しつつあった時期です。東北北部・中間地帯でもすでに再び稲作が始まっていたと思います。中間地域では647年に渟足(ぬたりのさく、 新潟市 付近?) 、翌年には磐舟柵 (村上市付近?)が造られ、ほぼ同じころ郡山にも城柵が築かれたとされています(吉川真司 前出8889)。城柵の周辺には、ヤマト圏から移住させた柵戸(きのへ)と服属したエミシを対象に、郡が立てられるのが普通です。しかし北部はついにこの種の郡はできずに終わったようです。比羅夫が置いた郡領は、ヤマト圏の郡司のように住民の戸籍を把握し、税・賦役・軍役を割り当てる役人ではなく、交易の窓口として認定されたエミシ集団の長というのが実態でしょう。(工藤 『古代蝦夷』前出102104頁参照)備えを携えた農耕集団が移住して来なければ、潅がい稲作が短期間で面として拡大することは考えられません。この時期の北部では稲作専業部族は少なく、アワやヒエと並ぶ穀物として取り入れる集団が点として増えていたのではないでしょうか。
したがって北部ではまだ、稲作で豊かになった集団が急激に勢力を伸ばし、他集団を併合していく段階ではなかったと考えられます。この地の「末期古墳」は、定型的前方後円墳(ヤマト王権への服属の証)のような大規模なものではなく、作られた時期も主として8世紀から10世紀のようです(『新北海道の古代32225頁参照)青森県などで「古代末期防御性集落」が現れるのは、10世紀から11世紀とされています(『古代蝦夷からアイヌへ』吉川弘文館 斉藤利男論文)
ヤマト王朝で、中間地域のエミシを直接収奪の対象に組み込もうとする動きは、7世紀末から8世紀にかけの律令体制強化とともに激しさを増します。7世紀中葉に遠征した比羅夫の目的はそれではなく、一つには「蛮夷」から朝貢を受ける中華帝国の形を作り、中国や朝鮮に誇示することだったと思います(工藤『蝦夷の古代史』前出114116頁参照)。『日本書紀』斉明5(659)の条に、遣唐使蝦夷の男女2人を唐の帝に見せたときの問答があります(同前340)。使者は帝の問いに答え、蝦夷にはつがる、麁蝦夷(あらえみし)、熟蝦夷(にぎえみし)の三種があって、彼らの国に五穀はなく人々は肉を食し、家はなく深山の樹の下に住む、と言上します。蛮夷な者さえ天皇の徳に靡いていると強調したかったのでしょう。
もう一つの目的は、エミシ圏内やエミシとヤマトの交易に国家的に介入すること。ヤマト圏のありふれた物と希少な北の物産を交易すれば、大きな利が得られます。その利は中央政府にも境界域に赴任した官人にも、けして見逃したくないものです。弥生時代から西日本の諸王は、確保した大陸・半島からの渡来品を分配して勢力拡大に努めていたと思います。飛鳥の中央政府は、北との交易も管理統制できそうだと感じたから、喜んで比羅夫たちを昇進させたのでしょう。
北征した船団の寄港地に集まってきたエミシは、遠征せずとも得られる絶好の交易機会を逃したくなかったのだと思います。ヤマト側が服属儀礼や貢納品の受納と解釈しても、エミシ側は相手の望む形式で交易するだけと思っていたかもしれません。貢納の対価として与えられる鉄製品や繊維製品、そして酒食には魅力があります。手に入れたきらびやかな金属製品・衣服・武具、それに初めて味わう米の酒やご馳走は、新たな欲望の種になります。大船団を率いる有力な首長から地域の第一人者として認定される(官位の授与)ことも、集団内部で地位を高め、他集団との競合で優位に立つ上で、無意味ではなかったはずです。このような接触が度重なればきっと、エミシ部族相互の対立抗争を誘う毒として作用します。
相手が望む交易品のひとつが奴隷(生口、奴婢)だと知れば、狩猟採取社会では意味がなかった捕虜獲得のための戦争にも、動機が生まれます。7世紀の中間地域は北部より稲作化が進んでいたようです。より早く毒が回る条件があったということです。生産力が高まって余剰が蓄積され戦争が頻繁になれば、集団内部でも階層化が進みます。エミシ集団内や集団間の社会関係の複雑化が、エミシ地域を直接的な収奪対象に組み込もうとする律令国家の欲望とあいまって、次の世紀はこの地を主な舞台に、両者の激しい戦いが繰り広げられることになります。(41章に続く)