白い大雪山 ムダの効用41-2

 
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 大雪連山にはやはり雪化粧が似合います。まだ薄化粧の山もありましたが、今日あたりはもうしっかり白くなっ
 
ていることでしょう。
 
 
          〔ムダの効用 41―2〕
 
まつろわぬ者たち(8)―2
 
〈変わる自然との関係〉
 
 巨大ダム建設や付帯する道路などの工事は、鉄・コンクリートアスファルトで地
 
表を覆うことになります。土壌は岩石の風化と生物死骸の堆積で、何百年何千年の歳
 
月をかけて作り上げられました。それが失われます。森林の保水力がなくなり、保持
 
する草木の根を失った斜面は崩れやすくなります。洪水・土砂災害対策として、いっ
 
そう多くの人工物が投入されます。悪循環の始まりです。生物多様性が損なわれ、棲
 
家と餌を奪われた獣が里に現れ害獣として駆除されます。自然の循環が断ち切られ、
 
生態系サービスが貧しくなり、人以外の生物の生存権が脅かされます。
 
 律令政府の東北開発も自然の循環が損なわれる領域を作り出します。越国(出羽国
 
分離-712年-後は越後国)では7世紀中に、淳足(ぬたり)柵、磐舟柵、都岐沙羅柵がで
 
きています。陸奥国では、東北開発の中心となる多賀城は城碑に724年創建とあります
 
が、それ以前に置賜郡や最上郡(出羽国分離後に陸奥国から移管)、仙台平野、大崎平
 
野、会津地方に城柵が置かれ、そこに官(行政庁)があったと推定されます。8世紀の
 
前半には玉造柵など五柵、出羽柵、多賀城雄勝城、桃生(ものお)城、伊治(これはり)
 
城、覚鱉(かくべつ)城、由理柵、中山柵などが造営されます。そして平安時代初期には
 
胆沢(いざわ)城、志波城、徳丹城などが。(工藤 『古代蝦夷』 前出 9094)。そ
 
の規模は例えば多賀城の場合、4辺が880メートル、1キロ、700メートル、880メート
 
ルほどの不整方形で、3つ以上の門をもつ築地塀で囲まれ、中央に位置する100メート
 
ル四方ほどの政庁はさらに築地塀で囲まれています(同前 111)。これらは現代都市
 
に比べればずっと小規模です。しかし、木材として伐採される樹木、整地のため刈り
 
払われる草木、掘り返される土壌の量は、縄文時代三内丸山遺跡の何十倍にも匹敵
 
するのではないでしょうか。
 
 律令政府が東北エミシ地域に作った最長最大の道路は、陸奥国国府多賀城と出
 
羽城を結ぶルートでしょう。太平洋近傍から日本海付近まで列島を横断する道路で
 
す。737年に建設が始まって、最終的には759年に完成します。もちろん山形自動車道
 
とは比較にならない規模のはずです。それでも軍馬や糧食を運ぶ荷駄を通す目的で作
 
られたのですから、現代の林道ほどには整地されていたと思います。それ以前のエミ
 
シ地域では、いまの登山道のような小道が集落をつなぎ、それ以外の奥羽山地には、
 
狩猟採集に入山する道ほどの踏み跡しかなかったと思います。だとすれば、多賀―
 
出羽横断道路は、大量の草木を切り払って、低地植物が山間に広がる通路を開いた最
 
初の大規模開発です。その周辺からはきっと、人のにおいを嫌って鳥獣も姿を消しま
 
す。仮想したダムで里人が山菜採りや猟の場所を失ったように、エミシはだいじなく
 
らしの糧であった狩猟採集に打撃を受けます。
 
 城柵や横断道の建設にもましてエミシを苦しめたのは、律令政府が城柵を拠点に、
 
稲作中心の郡を拡大しようとしたことだったと思います。これまでの章で何度か述べ
 
たように、7世紀から8世紀にかけて青森県北部まで再び稲作が行われるようになっ
 
ていました。しかしエミシが自ら長い潅がい水路を建設したり、大規模な開拓をして
 
広い水田を造成したりするようなことはなかったと思います。帰化人系集団が伝えた
 
土木技術がこの地域に広がっていたかどうか。そして何より、大規模土木工事を実施
 
できる広域社会集団が成立していたとは思えないのです。(この項明日に続く)