睡蓮 ムダの効用40-3

 
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 せせらぎ公園の池に睡蓮が咲く季節になりました。栽培種のなかでは好きな花の一つです。特に白が気に入
 
っているのですが、普通に撮ると明度が高すぎてぼやけ、暗くして撮ると花以外が黒くなります。むずかしい花で
 
す。年々数が増えてきているのが楽しみです。
 
                          〔ムダの効用〕
 
40 まつろわぬ者たち(73) 
5世紀後半には関東以西の列島は120ほどのクニに統合されていたというのが、吉村の推定のようです(同前80)。地域の第一人者になった首長は、初めは他のクニと競合する独立した立場で(中国に使者を派遣したときは王を称し)、後に畿内倭王に服属してからは国造(くにのみやつこ)として、領域内の首長層や平民 (中国の史書の呼び名では大人と下戸)、奴婢 (生口=奴隷)を支配しました。彼らにとって大陸や半島からの物資と工人・専門家集団の確保は、覇権を争う上で死活の重要性があったのでしょう。なかでも鉄器原料で半島南部が主な生産地であった鉄塊や、金属製の武器・祭儀用品とその製作者は重視されたと思います。それらの安定した補給を維持するため、執拗に半島の紛争に武力介入し、大陸の王朝に対して半島での宗主権を主張しました。
いくつかの広域的な首長連合が成長し、そのなかで大和を中心に畿内を本拠としていた首長連合が頭角を現し、五世紀にはその盟主が倭王を名乗っています。ヤマト王朝です。大国主神(おほくにぬし)の国譲り伝説は、大和の神が各地の神から宗主権を承認されて天皇家の祖先になったというストーリーを反映しているのでしょう。ちなみに天皇家につながる系統は、奈良時代までに1ないし2回交代があったようです。王朝の核となる王臣団は、歴代の王族の他に、盟主である王家を支え姻戚を結んだ畿内の首長たちや、武力などの職能集団を率いて仕えた者の一族で構成されています。森浩一は、南九州から海路東征して大和地方を征服した勢力がヤマト王家と王臣団の祖先だ、という意味の主張をしています(『日本神話の考古学』朝日文庫 122249)。それだとクマソや隼人は東征に同行せず南九州に残留した人々の末裔ということになります。ならば彼らはエミシとはちがってもともと弥生文化系です。
阿部比羅夫が大和地方出身だとすれば、そのような王臣団の一員として、服属した広域連合の一つである越国に派遣され、そこからの貢納・賦役・軍役や宮廷へ出仕すべき在地首長の子女選抜などを監督する地位にあったということです。彼の時代には、在地勢力の代表である国造は評(後の郡)の役人へと格下げされていました。いくつかの評が国としてまとめられ、宮廷から派遣された国宰や国司が評役人を指揮するようになっています。(『日本古代史③』吉川真司 岩波新書 6365)比羅夫は北征後662年に百済救援軍の将軍に任じられました。倭国は、翌年白村江(はくすきのえ)で倭・百済連合軍が新羅・唐連合軍に大敗してから、半島での支配力が大きく後退するとともに、百済から再び大量の移住者を迎え入れることになります。
ここまではヤマト地域が考察の対象でしたが、ここからはエミシ圏に視点を移します。東北地方を三つに分けて考えたほうがよさそうです。大雑把には、新潟平野西部と仙台平野を結ぶ線以南(以後南部と呼びます)、その線から 秋田市盛岡市 を結ぶ線の間(同じく中間地域)、そしてそれ以北の津軽・下北を中心とする地域(同じく北部)です。南部は中間地域や北部の影響はあるものの、多くの地域が、早いところは中部・関東と同じ弥生中期、遅いところでも飛鳥時代までには、稲作文化のヤマト圏に属しています。北部は北海道と共通なところが多い、続縄文・擦文文化の生活様式が本州で一番後まで残りました。他地域と同種の社会秩序が支配的になるのは、平安末期の平泉藤原氏以後です。そして中間地域は南部と北部の要素がまだらに混じり合っています。ここが8世紀の騒乱で主な舞台になりました。
北へ行くほど人々は自給自足のくらしを余儀なくされていたと思われるかも知れませんが、一概にそうとも言えません。北海道と東北の続縄文・擦文文化を縄文文化と区別する特徴に、弥生・古墳文化の生活用具が入ってきて、日常生活に不可欠になっていたことがあります。すでに縄文時代から北海道の住民は日本海を通じて北陸方面と交易をしていました。津軽地方にはその拠点があったと考えられます。そういう場所は続縄文時代以後、北海道やそれ以北の物産とヤマト地域の産物が交易されて賑わっていたかもしれません。エミシ圏では鉄()、土師器・須恵器、綿などが必需品になり、ヤマト地域では鷹羽、陸獣・海獣の毛皮、薬草、鮭・昆布などの食品に需要があります。特に鷹羽は朝廷が規定する位階別の服飾品に含まれており、廷臣たちになくてはならない品だったようです。また東北地方の馬は武人に高く評価されています。縄文時代の列島にはいなかったと言われているので、渡来人によって持ち込まれやがて東北の特産品になったのでしょう。
石川日出志(前出122134)は、濃尾平野より東で最初の潅がい稲作は、中部・関東に先駆け、弥生時代前期(BC4世紀?) 日本海貿易ルートで東北地方北部まで到達したとしています。中期(BC3世紀?) には定着し、地域によってはかなり大規模な水田経営が行われた、と。北海道とともに縄文文化から続縄文に移行してまもなく、弥生文化が波及してきたことになります。ところが中部・関東に本格的農耕集落が出現する弥生中期中葉(BC2世紀) から、集住集落の痕跡が消えます。移動の多い狩猟採集的な続縄文文化の圏内に再び入ったということです。彼は西日本弥生前期の指標になっている遠賀川系土器について、興味深い指摘をしています。この土器は中部・関東の遺跡からはほとんど発見されていないのに、東北地方、特に海沿いの平野部では遠賀川系土器に酷似する壷と甕が出土する、と言います。それらは西日本で製作された品ではなく、「西日本からもたらされた少数の遠賀川系土器が、東北地方で模倣されて製作されたことは疑いない。」
東北の初期稲作も、遠賀川系土器類似品と同じで弥生系集団の手によるものではなく、交易を通じて知識を得たエミシが自ら導入したと考えられます。中部・関東やそれ以西のように、武力と有形無形の資本をもつ強力な勢力に強制されたわけではないので、集団ごとに対応がばらばらだったのでしょう。あまり労力を使わずに水田を営むことができる広い土地があれば本格的に導入する、小集団では容易に開拓できない地域では採用されない、環境が中間的なら従来の粗放栽培の品種を一つ増やすようなつもりで試みる、などと。(明日に続く)