オオウバユリ ムダの効用 40-1
タムラ、この手のことを思いつく人はけっこういるんじゃないかな。そのなかにネットキャンペーンを仕掛ける能
力のある人がいるといいんだけど。
まりさん、ドイツは緑の党が長い間耕した土壌があって、3・11で一挙に事態が動いたのでは ? 日本だとネット
でこの種の議論が盛り上がり、それが彼の耳にも届くみたいなことでもないと、波は起きないような気がします。
ところで11時に夕焼けなんですか。美幌よりだいぶ北になりますね。
せせらぎ公園の森下の薮に、おびただしい数のオオウバユリが咲いています。開ききると葉が朽ちて汚くなる
ので、このくらいのほうがすっきりしていい感じ。
〔ムダの効用〕
40 まつろわぬ者たち(7-1)
もって編纂されています。その記事、特に早い時代に関するものは、古記・古文献、各
地に伝わった物語、諸氏の伝承、中国史書などから、政治的意図をもって取捨選択され
ており、そのまま史実とみなすことはできないというのが、今では常識です。蝦夷関係
語(第23巻)。もう一つは斉明4-6年(658~660年)の3回にわたる、阿部比羅夫による日本
海北上遠征(第26巻)。このころになると、わたしたちにとっての大正・昭和初期に似
て、両親や祖父母から話を聞いた人もまだ生きていたでしょう。修飾はされていても大
筋は根拠となる事実があったと考えられます。本章では阿部比羅夫の遠征に焦点を合わ
せます。
658年の遠征記事に比羅夫の名はなく、ただ「阿部臣」と書かれています。翌年の遠征
の次の年は再び「阿部臣」。これは同一人と考えてよさそうです。安曇比羅夫とも混同
将軍阿部引田比羅夫臣の名があるので、別人のようです。ちなみにわたしが拠ったのは
同書から比羅夫北征関連事項を抜き出してみます。658年4月、阿部臣が180艘の軍船
そのうちの主だった者は位や武具類を授けられる(同332頁)。659年の北上でも軍船は180
し、舟一艘と5色の絹を与え、土地の神を祭る。肉入籠(ししりこ)へ行き、そこで二人の
進する。(同336-338頁)
訴える。比羅夫が粛慎を招き寄せようとするが応じない。そこで絹布、武器、鉄などを
海岸に置いて待った。粛慎は羽の旗を掲げた軍船を連ね、棹をそろえて浅いところまで
寄せる。一度は置かれた物の一部を取ったが、やがて返して本拠地に戻った。その後交
渉を求めてきたが今度は比羅夫側が応じず、粛慎は柵に拠って戦う。比羅夫船団はリー
ダーの一人が戦死するが、けっきょく勝利した。夏に比羅夫は夷(えみし)50人余を献
上。この年新造の須彌山で粛慎47人に饗を賜う。(同342・343頁)
比羅夫は大和地方で勢力のあった一族の出身(異説あり)で、当時越国(こしのくに)の守
す。そのうち新潟(越後)平野以北はまだエミシの勢力圏でした。郡領は郡司(複数)の役職
の一つです。ただし当時の地方組織は評で、まだ郡になっていません。『日本書紀』は
郡・郡領など、律令化が進んだ後の組織名・役職名を遡及させています。粛慎は大陸北
東文化圏に属すると思われますが、詳細は不明です。オホーツク文化人とする歴史家も
います。膽振鉏(いぶりさえ)、肉入籠(ししりこ)、後方羊蹄(しりべし)の場所は特定され
この遠征の背景となる、潅がい稲作到来から比羅夫が生きた律令国家初期までの、
列島における社会変化をできるだけ短くまとめてみます。ちなみに「日本」という国号
マト王朝の直接統治が及ぶ地域をヤマト圏と呼ぶことにします。そしてこのときまでヤ
マト圏にならなかった地域をエミシ圏と。
社会とよぶには躊躇する状況であり、それは中期初頭まで続く。」「ところが中期中頃
になると、突如本格的農耕集落が出現する。」後半は 小田原市 の中里遺跡についての記
述ですが、中里遺跡のような集落は「南関東各地に出現している」と書かれています。
また「こうした本格的農耕社会が形成される過程は、細部では違いがあっても、北陸や
中部高地でも確認することができる。」「中期中葉に冨山、新潟、佐渡といった北陸北
半分でも、いっせいに環濠集落が出現するなど本格的な稲作社会へと急展開する」(120
-126頁)。(明日に続く)