オオウバユリ ムダの効用 40-1

 タムラ、この手のことを思いつく人はけっこういるんじゃないかな。そのなかにネットキャンペーンを仕掛ける能
 
力のある人がいるといいんだけど。
 
 
 まりさん、ドイツは緑の党が長い間耕した土壌があって、3・11で一挙に事態が動いたのでは ? 日本だとネット
 
でこの種の議論が盛り上がり、それが彼の耳にも届くみたいなことでもないと、波は起きないような気がします。
 
 ところで11時に夕焼けなんですか。美幌よりだいぶ北になりますね。
 
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 せせらぎ公園の森下の薮に、おびただしい数のオオウバユリが咲いています。開ききると葉が朽ちて汚くなる
 
ので、このくらいのほうがすっきりしていい感じ。
 
             〔ムダの効用〕
 
 40 まつろわぬ者たち(7-1)
 
  『日本書紀』は720年に、紀元前7世紀から天武朝(697)までの皇統を跡付ける意図を  
 
 もって編纂されています。その記事、特に早い時代に関するものは、古記・古文献、各
 
 地に伝わった物語、諸氏の伝承、中国史書などから、政治的意図をもって取捨選択され 
 
 ており、そのまま史実とみなすことはできないというのが、今では常識です。蝦夷関係 
 
で最も古い記事は、景行天皇40年・AD110年とされている、日本武尊(ヤマトタケル)
 
 蝦夷討伐です。その後の討伐・帰順・朝貢などにかかわる箇所とともに、古くから蛮夷
 
 を征服し帰順・朝貢させていると示す目的で採用されたと思われます。
 
 7世紀は対蝦夷関係で主な話題が二つ。一つは舒明天皇9年(637)の、将軍に任じられ
 
た上毛野君形名(かみつけののきみかたな)が一度は蝦夷に敗れ、妻の機転で再起する物
 
(23)。もう一つは斉明46(658660)3回にわたる、阿部比羅夫による日本
 
海北上遠征(26)。このころになると、わたしたちにとっての大正・昭和初期に似
 
て、両親や祖父母から話を聞いた人もまだ生きていたでしょう。修飾はされていても大
 
筋は根拠となる事実があったと考えられます。本章では阿部比羅夫の遠征に焦点を合わ
 
せます。
 
  658年の遠征記事に比羅夫の名はなく、ただ「阿部臣」と書かれています。翌年の遠征
 
では「越国守阿部引田臣比羅夫(こしのくにのかみあべひけたのおみひらふ)」です。そ
 
の次の年は再び「阿部臣」。これは同一人と考えてよさそうです。安曇比羅夫とも混同
 
されることがあるようですが、天智1(662)の百済救援軍に、前将軍安曇比羅夫連・後
 
将軍阿部引田比羅夫臣の名があるので、別人のようです。ちなみにわたしが拠ったのは
 
岩波書店の日本古典文學大系の『日本書紀』上下です。
 
 同書から比羅夫北征関連事項を抜き出してみます。6584月、阿部臣が180艘の軍船
 
を率いて蝦夷討伐へ。秋田・能代あたりの蝦夷が船団を見て、「怖()ぢて降(したが)
 
むと乞ふ。」恭順した蝦夷の一人(名はオガ)に低い官位を与え、能代津軽の郡領に任
 
命。さらに有間浜(場所不明、津軽地方のどこか ?) で、渡島 (わたりしま、北海道 ?) のエ
 
ミシを集めて大いに饗応する。(330) 同年7月、200余名の蝦夷が朝廷に来て朝貢
 
そのうちの主だった者は位や武具類を授けられる(332)659年の北上でも軍船は180
 
艘。秋田・能代津軽・膽振鉏(いぶりさえ)蝦夷など、408人を一ヶ所に集めて饗応
 
し、舟一艘と5色の絹を与え、土地の神を祭る。肉入籠(ししりこ)へ行き、そこで二人の
 
蝦夷の進言に従って、後方羊蹄(しりべし)に郡領を置いて帰る。粛慎(みしはせ)を討ち、
 
その捕虜49人・ヒグマ2頭・熊皮70枚を朝廷に献上。比羅夫のほか陸奥国司などが昇
 
進する。(336338)
 
 660年春、阿部臣に軍船200艘で粛慎国を討伐させる。陸奥蝦夷を乗せて大河の河口
 
に行くと、渡島の蝦夷1.000人余が露営していて、粛慎が自分たちを殺そうとしていると
 
訴える。比羅夫が粛慎を招き寄せようとするが応じない。そこで絹布、武器、鉄などを
 
海岸に置いて待った。粛慎は羽の旗を掲げた軍船を連ね、棹をそろえて浅いところまで
 
寄せる。一度は置かれた物の一部を取ったが、やがて返して本拠地に戻った。その後交
 
渉を求めてきたが今度は比羅夫側が応じず、粛慎は柵に拠って戦う。比羅夫船団はリー
 
ダーの一人が戦死するが、けっきょく勝利した。夏に比羅夫は夷(えみし)50人余を献
 
上。この年新造の須彌山で粛慎47人に饗を賜う。(342343)
 
 比羅夫は大和地方で勢力のあった一族の出身(異説あり)で、当時越国(こしのくに)の守
 
(国司の前身)でした。国は郡(かつて地方首長の下で自立していたクニの後身)をいくつか
 
束ねる組織です。越は現在の 福井県敦賀市 から山形県庄内地方までの日本海沿岸地方で
 
す。そのうち新潟(越後)平野以北はまだエミシの勢力圏でした。郡領は郡司(複数)の役職
 
の一つです。ただし当時の地方組織は評で、まだ郡になっていません。日本書紀』は
 
郡・郡領など、律令化が進んだ後の組織名・役職名を遡及させています。粛慎は大陸北
 
東文化圏に属すると思われますが、詳細は不明です。オホーツク文化人とする歴史家も
 
います。膽振鉏(いぶりさえ)、肉入籠(ししりこ)、後方羊蹄(しりべし)の場所は特定され
 
ていません。比羅夫北征については、工藤雅樹(蝦夷の古代史』平凡新書103118
 
頁、『古代蝦夷吉川弘文館100)の解説があります。
 
  この遠征の背景となる、潅がい稲作到来から比羅夫が生きた律令国家初期までの、
 
列島における社会変化をできるだけ短くまとめてみます。ちなみに「日本」という国号
 
や「天皇」の称号が使われるのは、689年の浄御原令以後です(網野善彦『日本社会の歴
 
史 上』岩波新書109)。比羅夫が仕えていたのはまだ日本国天皇ではなく倭(ヤマト)
 
王ということになります。便宜的に、飛鳥時代までに本州(九州・四国などを含め)でヤ
 
マト王朝の直接統治が及ぶ地域をヤマト圏と呼ぶことにします。そしてこのときまでヤ
 
マト圏にならなかった地域をエミシ圏と。
 
 石川日出志(『日本古代史①』岩波新書)は中部・関東での稲作集落成立を「突如」と 
 
形容しています。「濃尾平野より東の中部・関東地方では(中略)弥生前期段階では農耕
 
社会とよぶには躊躇する状況であり、それは中期初頭まで続く。」「ところが中期中頃
 
になると、突如本格的農耕集落が出現する。」後半は 小田原市 の中里遺跡についての記
 
述ですが、中里遺跡のような集落は「南関東各地に出現している」と書かれています。
 
また「こうした本格的農耕社会が形成される過程は、細部では違いがあっても、北陸や
 
中部高地でも確認することができる。」「中期中葉に冨山、新潟、佐渡といった北陸北
 
半分でも、いっせいに環濠集落が出現するなど本格的な稲作社会へと急展開する」(120
 
126)。(明日に続く)