「ありのままの自然」という幻想

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 最近の美幌では朝3時を過ぎると明るさが増します。夕方は、6時にはカーテンを閉めて一杯やり始めますので、確かなことはわかりませんが、暗くなるのは8時近いような気がします。写真は朝3時半から4時ごろの朝焼けです。トイレから外を見たら太陽が後ろから雲を照らしとてもきれいだったので、あわててカメラをつかんで飛び出し、美幌川の土手に駆け上ったのですが、そのときはもう雲が厚くなって太陽は見えませんでした。2週間ほどあとの今日の朝、また同じことになってしまいました。1枚目が今日のものです。
 
 マイクル・クライトンは昨日あげた本の中でこういう意味のことを言っています。ヨーロッパからの移住者が見た北米大陸の自然は、「手つかずの大自然」などではない。先住民が何千年もにわたり、「野焼きをし、森の広がりを制御し、特定の動物種の個体数を減らし、他の動物種を絶滅に追い込むことで」、作り上げたものだ。1872年に国立公園に指定されたイエローストーンは、20世紀初頭まで、エルク(大型の鹿)、バッファロー、クロクマ、シカ、ピューマ、グリズリー、コヨーテ、オオカミ、オオツノヒツジなどが豊富で、原住民の狩猟の対象になっていた。ところが公園管理局ができて、公園をもとのままに維持しようと、オオカミを殺し原住民の狩猟を禁じた。その結果かつてのような動物がひしめく光景は、永久に失われてしまった。爆発的に増殖したエルクが、植物を大量に食い荒らしたために生態系が回復できないところまで変わってしまったからだ。善意からでも知識がなかったため、原住民が暮らし密着した知恵と繊細な感覚で、狩や火事を巧みに使って管理してきた豊かな自然を、彼らは台無しにしてしまったのだ。自然保護は、コンピューターの前で研究する人を減らし、フィールド・ワーカーを大幅に増やし、目的をはっきりさせ、さまざまな実験を試みて知識を積み上げ、目的に最適な方法を見つけ出し、積極的に自然を管理しない限り、けして成功しない。とまあ、こんな意見でしょうか。
 説得力がありますね。いまの北海道の風景は、開拓者たちが森を切り開いて畑や牧場を作って、行政が道路網や鉄道を張り巡らせた結果できたものです。アイヌの大地だったたころとはずいぶんちがうものになっているのでしょう。埼玉のコンクリート都市から来たわたしには、それでもまだずいぶん豊かな自然と思えますが、今後何を目的にどのように自然を管理していけばいいのか、難しい課題だと思います。エゾシカやヒグマをどのように、どの程度繁殖させるのか。それは何のためか。釧路川の蛇行は元に戻したほうがいいのか、直線に改修した影響は回復可能なのか。
 自然は時間とともに景観を変化させます。やがて尾瀬ヶ原は森林となり、尾瀬沼は湿原に変わります。北海道の湿原と湖も同じです。わたしたちは何を目的に、どこまで自然の変化に干渉すべきなのか。いままでは大きなビジョンも、十分な知識もないまま、さあ開発だ、今度は自然保護だと、近視眼的な行動を積み重ねてきました。その繰り返しじゃダメだということだけは確かですね。