自然保護のカナメは格差緩和

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 また堅い話に戻ります。そういうことは第二部じゃないのかと思う人がいるかもしれませんので、ちょっと一言。第一部と第二部のちがいは、わたしの基準としては、「わたし」が主語になる文章が多いか少ないかです。第一部ではわたしの感想が中心です。第二部は資料とそれにもとづく論理が中心です。単純に言えば、随筆と評論の違いです。

 身近なところでの自然保護は、その人の住む場所、生活などによってさまざまです。わたしにも、生ゴミコンポストで処理する、美幌川の散歩道を汚さないなど、それなりに心がけていることはあります。それにしても、美幌川堤の一部、車道に近いところには、さまざまなゴミが捨てられていて、歩くたびに不愉快になります。わたしが拾ってもいいわけなのですが、集めたゴミ(かなりの分量になるでしょう)をどう処分したらいいのかもわからないし、なかなか一人ではやる気になりません。
 「環境を悪化させないために、各自が身近なところでできることをする、それが一番だいじだ、さあみんなに呼びかけよう、」などと言うのはいやです。「大きなことを言っても仕方がない、自分にできることだけやればいい、」みたいな響きを感じてしまいます。だれかがどこかで、ひそかにほくそ笑んでいるんじゃないかと、疑いたくなります。大規模な環境破壊の元凶である人が、「環境保護は総論としては反対できない、それなら各論の矛先が自分のほうに向かないように手を打たなくては、」とつぶやいているんじゃないかと。
 マイクル・クライトンが小説の中で登場人物に、「環境破壊の最大の原因は何か?それは貧困だ。飢えた人間に環境破壊を心配する余裕などあるはずもない。(中略)いま現在、飢えた人間は世界じゅうに五億人もいる。」と言わせています。わたしも賛成です。ただし飢餓人口は5億人より多いはずです。それと、衣食住は満たせていても、その社会の下層に属し、成り上がろうと必死だったり、絶望や無気力に陥っていたりする人も、環境破壊の心配をする余裕はないと思います。
 アフリカで餓死寸前の人に、食料も提供せず、「チンパンジーを食うな」とか「森を拓くな」とか言うのは、残酷じゃないですか。ブラジルが国民の貧困を解決しようと、アマゾンの原始林の一部を畑にしてサトウキビを作り、エタノール燃料を生産するのに、その燃料を輸入する国が、「アマゾンが砂漠化する」と批判したら、偽善じゃないですか。国中を金持ちになるための競争に駆り立てる政治の音頭を取っている人が、負け組みに向かって、「ふるさとの自然と伝統を尊重する気持ちを持て」などと言うのは、恥知らずじゃないですか。
 環境保護はヒトの目指す未来の方向とかかわっているはずです。最低限の物質的的生活条件が万人に保障され、その上で無形の価値の生産を競い合う社会になれば、くらしの向上と精神の満足のために、失われれば回復できない情報価値の宝庫である自然を護ろうという機運が、おのずから高まる、そう思いませんか。

 今日の写真は美幌川の水面を背景にしたウドの花と土手のノコギリソウの花です。