農民的節約と情報時代の経済価値

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 釧路湿原に遊んでわたしが使ったお金はだいたい1万5000円。その対価として得られたのは、わたしの気持ちの満足だけで、財産や体力のような、モノとしては何もありません。国民年金が唯一の収入ですから、個人的にはかなりのぜいたくということになります。江戸時代の小作農なら、そんな無駄遣いはとんでもない、ゆとりがあったら農具を整えて収穫を増やし、少しずつでも農地を買って、孫・子に残してやることを考えろ、と言われるところです。できるだけ節約をして、後に残るモノとしての財を増やす、それが農民的美徳だったと思います。今でも世界全体を考えれば、この美徳が通用する家族のほうが多いのでしょう。
 しかし、経済先進国といわれる地域に限れば、農民的美徳は経済発展の邪魔になります。わたしの1万5000円は、カヌーのガイドさんや民宿の人たちの収入に姿を変えました。その対価として彼らがわたしに渡したモノは、ほとんど食事くらいでしょう。食事にしても、その代金に含まれる食材費や燃料代はせいぜい3割未満で、あとは味や見栄えや雰囲気を調えるサービスの対価です。中心は釧路湿原の美しさです。釧路湿原を訪れる人がいなければ、ただそこにあるだけで、経済的には無意味です。美しさを愛でる人の行為が釧路湿原に経済価値を生じさせます。釧路湿原に拠って生計を立てる人々が豊かになり、美幌峠の景観を愛でるためにこちらに来るようになれば、こちらの経済が潤います。同じ景色を毎日見ていれば、特別な感慨はなくなるかもしれません。お互いにちがうものをだいじにして味わうという行為がさかんになると、交換されるモノはわずかでも、経済が活発になります。それは景観に限らないでしょう。
 ちがいとは情報です。物質的に生活の必要が満たされると、情報がモノの進歩に役立つわけでなくても、情報であるだけで経済価値をもつようになります。
 一人で250キロをひたすら運転するつれづれに、こんなことを考えていました。若い人には、当たり前のことを何をごちゃごちゃ、と思えるのでしょうが、「ぜいたく」を後ろめたく感じる農民的感性を残すわたしの、自分に対する言い訳なのかもしれませんね。
 今日の写真は湿原でよく見かけたサンザシとモリウツギの花、それにソラさんが喜んでくれたようなのでカヌーからの景色をもう一枚。