わが庭にブドウ芽吹かず

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第一部
 ウチの畑に芽吹くもの:青ジソ、トマト、ほうれん草、みんなみんなまだ小さい。いちご:5・6個つけた赤い実を、先に小鳥に食べられて、味わったのは一つだけ。かぼちゃ:8個の種を埋めたのに、芽を出したのはただ一本。果物の木:スモモ二本にさくらんぼ、四本植えた苗はみな、黄緑色に芽吹いたけれど、ブドウ二本はいまだ芽吹かず。隣の人の言うことにゃ、植えた時期が早すぎた。
 今日の写真は白い花です。網走川の土手に上がったとき目を惹かれました。

第二部
       フィンランド・モデルは好きになれますか 3

1 フィンランドの風土と歴史
 (2) 歴史(承前)
 1917年に独立するまでのロシア統治期に、フィンランド人の国民意識は成熟する。アレクサンドル鏡(1855-1881)治下で、休止させられていたフィンランド議会が復活し、フィンランド語が公用語となり、独自の軍隊を持つことになった。彼の時代に民族叙事詩カレワラが書かれている。次の皇帝からロシアが反動化しはじめ、フィンランドは冬の時代を迎える。この時期、シベリウスが音楽を通じてさかんに愛国心を鼓舞している。独自の議会、官制、法制、軍,通貨、切手を持つ「国のなかの国」が、ロシア排外主義の標的になった。「ロシア化」の嵐は独立まで続く。その小休止期間、1905年のケレンスキー革命のときに、身分制議会を廃して女性が選挙権を持つ(欧州ではじめて)普通選挙を実施している。
 ボルシェビキー革命が成功した1917年、フィンランド議会は独立を宣言する。しかしこれが、ソ連邦への参加を求める労働者側の赤軍と、独立を求める政府側白軍による内戦のはじまりになった。今のフィンランドの人々は自分がどちらの子孫であるか承知している。だが事実を事実として受け止めるだけで、そこから新たな分裂が生まれるようすはない。この戦いは最終的には政府軍が勝利し、1919年フィンランド共和国が誕生した。
 反対派を政府内に取り込む努力などもあって、内戦の傷は次第に癒されていく。20年代には左派政権が成立したこともある。30年代にはファシズムが波及してくるが、その武力蜂起は失敗した。安全保障政策としては、はじめはポーランドバルト三国との同盟を、そして次第に北欧諸国との協調を目指すようになる。
 1939年12月、基地提供の要求を拒否されたソ連が侵攻してくる。「冬戦争」である。スウェーデンは中立政策を取り、その他の国からもほとんど支援はない。孤立した小国フィンランドが、圧倒的な武力を持つソ連軍に抗して一歩も引かない。その勇猛さは世界を瞠目させた。冬戦争は国境地帯の領土を割譲し、4ヶ月余で終わるが、1941年からの「継続戦争」につながっていく。ソ連に対抗するためにはドイツと協力するほかなかった。そのためソ連軍の空爆を受け再び戦闘に入ったのである。1944年9月、フィンランドという国の消滅を避けるため、ドイツの敗戦に先駆けて降伏した。第二次大戦でドイツと結んで連合国に対抗したとみなされて、ソ連に対するカルヤラ地方(国土の一割にも相当する)の割譲と3億ドルの賠償支払いを課された。
 戦後はソ連への配慮からマーシャル・プランの資金を受けず、中立国スウェーデンの援助と自助努力で復興を目指す。冷戦時代は東西対立を背景に、選挙のたびに左右両勢力の盛衰が繰り返されるが、NATOにもワルシャワ条約機構にも加盟せず、中立を貫く政策は維持された。1952年のヘルシンキ・オリンピックの年に賠償金を完済し、それ以後福祉国家建設にまい進する。極力ソ連を刺激しないように配慮しながら(「フィンランド化」と揶揄される)も、東側陣営に組み入れられることは拒否して、1989年のソ連圏崩壊を迎える。そして欧州統合の動きに積極的に参画しつつ現在に至っている。
 ロシア統治の時代、西欧からの窓口として、特に工業製品をロシアに輸出して経済的な基盤を築く。敗戦後、賠償金を工業製品で代物弁済するように求められたことから、産業の革新が進む。賠償の搬送ルートが東西交易の通路になり、大きな貿易利益を得ることができた。福祉国家戦略の効果もあって、一人あたりのGDPは世界のトップに位置するようになる。ソ連邦崩壊による最大の貿易相手の衰退で、GDPは約4割減少し、財政赤字が増大する。しかし、西欧との経済関係改善に活路を求め、国をあげて教育改革とIT革命を推進し、再び経済競争力で世界の頂点に躍り出ることになった。〔機(2)おわり〕