冬でも室内が快適な理由

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第一部 
 道東は月曜あたりから雨模様で寒い。いま足の下に電気ストーブを置いて書いています。30度を超す日があるかと思えば、室内でも夜は10度近くまで下がったりします。おととい暖房をつけなかったら、昼間なのに12度くらいでした。冬でも屋内を25度くらいにしている理由がわかりました。日ごとの、そして一日のうちでも、寒暖の差が大きくて、体を変化に合わせることが無理なんです。だから個室暖房ではなく、常時全体を暖め、移動や時間で急激な温度変化にさらされないようにするのでしょう。ストーブ一個で全室を暖めますから、火の気に近い部屋は半そでですごすほどの温度になります。
 今日の写真は網走川の河川敷に咲いていた黄色い花です。ウチの庭に勝手にあちこち一本ずつ咲いているのと同じような気もしますが、名前はわかりません。一見菜の花に似ているけれど葉を見るとちがうようです。そんなに華々しくなくてこちらのほうが可憐に思えます。
 このところ訪問者が急に増えて100人を超す日もあり、コメントも多く、戸惑ったり喜んだりしています。ありがとうございます。

第二部
     フィンランド・モデルは好きになれますか 2

1 フィンランドの風土と歴史
 (2)歴史
 この項の資料としては、Л┐梁召法
  フリー百科事典『ウィキペディア』の「フィンランドの歴史」
  フィンランド在日大使館ホームページの歴史概略(邦文)
  同ホームページからたどった“Main outlines of Finnish history”by Dr. Seppo Zetterberg  (英文)
を使う。
 先史時代については主にを、中世以降はその他にと世界史年表(岩波書店)を参照する。これから見ていくように、フィンランドスウェーデン、ロシア(ソ連)、デンマーク、ドイツなどの大国の覇権争いにまきこまれ、辛酸をなめ血を流して建国し国を護っている。それだけに、欧米列強に翻弄され、日露戦争や太平洋戦争を戦うことになった日本への親近感が強いという。にもかかわらず、Zetterbergの文章は、スウェーデンやロシアの祖国占領を描写するときにも、きわめて抑制的である。自分の記述が大国の狭間で生きる国民の不利益になってはならないと、はっきり意識しているのだろう。全体としてこの国の発言では、強烈な愛国心を感情に流されずに国民生活の充実に結びつける、成熟した判断が優勢だという印象がある。

 もともとのフィンランド人は漢民族に追われた匈奴の末裔だという説もあるが、最新の学説では紀元前3000年に、サーミ人とフィン人の共通祖先がこの地に移住してきたとされている。農耕を始めたフィン人とトナカイ牧畜のサーミ人に分かれ、それぞれいくつかの部族を形成する。フィン人は夏は農業、冬は狩で暮らしていた。
 西ローマ帝国の没落期から14世紀にかけては、フランク、サクソン、デーン、スウェイン、ノルマンなどの北方ゲルマン諸族が、アフリカ北部からキエフまでの欧州を中心とする各地で、王国や公国を樹立している。9世紀以降は特にデーン、スウェイン、ノルマンが活発だった。1101年、ノルウェーデンマークスウェーデンの三王国が不可侵同盟を結ぶ。1155年、政治的空白地帯だったフィンランドに、カソリック教会が主導権を握るスウェーデンがいわゆる北方十字軍を起こし、多くの地域を属州とした。それ以後これらの地域は、ギリシャ正教のロシア(ノヴゴロド)との覇権争いに巻き込まれることになる。ノヴゴロド公国は劣勢であり、1323年の協定で東方のカレリアを除いて残りはスウェーデンに委ねることを承認した。1397年のデンマークによる北欧三国統合(カルマル会盟)後、フィンランド人はデンマークの重税に苦しむ経験もする。この時期を含め19世紀までは、スウェーデンの影響下にあった。彼らはこの国を通じて、西欧文明圏に引き入れられたのである。フィンランド人はスウェーデン国王の選挙に代表を送ることができ、16世紀からは議会に議席も与えられている。17世紀から18世紀にかけて、ロシアの弱体化につけこみ、支配領域が拡大された。
 支配層を中心にスウェーデン語が広がるが、16世紀以降ルター派宗教改革が波及するとともに、自国語を重視する機運が高まる。それはナショナリズムの胎動でもあった。19世紀初頭、力をつけてきたロシアが、衰退し始めていたスウェーデンと対峙する。戦争に動員されたフィンランド人の部隊は、その勇猛さで有名になった。スウェーデンの統治下ではフィンランドというまとまった領域はなく、いくつかの州に分かれていた。ロシアの勝利とともに、ロシア皇帝が直轄統治する一つの大公国が誕生する。初代大公アレクサンドル祇(1805-1825)は、ロシア正教を強制することなくルター派教会を許し、ロシア語ではなくスウェーデン語を公用語とし、フィンランド人長老会議による自治を認めた。(この項続く)