秋色の山 ムダの効用41-6

 
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 10月9日に撮った糠平国道(273号)沿いの森です。まだ色づいて間もない感じでした。ここ3日間、モミジを目
 
当てに東京から訪れた知り人の一向を楽しく案内していたのですが、初めの2日は天気に恵まれず、最終日の
 
昨日になって、オンネトウ、阿寒、摩周湖屈斜路湖畔を一気に回りました。紅葉が盛りの場所、ほとんど散って
 
しまったところ、十分色づく前に霜で茶色くなってしまった樹など、錦秋の終わりに近い諸相を堪能できました。
 
一週間ほどでずいぶん季節が進んだみたいな感じ。でも屈斜路湖畔だけは、まだこれから色がもっと深まりそう
 
な気配でした。ここや美幌町は秋の最後を締めくくろうと控えているようです。
 
 
       
       〔ムダの効用 41-6〕
 
まつろわぬ者たち()―6
 
〈労働の始まり―承前〉
 
稲作が拡大しクニができたころ、農耕民がどんな気持ちだったか想像してみます:永遠のような遠い過去からずっと狩猟採集が続いてきた。いまは潅がい稲作が行われ、10倍あるいは100倍にもあたる収穫がえられる。これだけ豊かな稔りが人間技であるわけがない。人智を超える存在()がもたらした神秘的な恵みにちがいない。潅がいや稲の栽培にかかわる知識・技術はただの人には得られない神聖な知恵だ。種籾は神の賜物で、野生の穀物にはないふしぎな力が宿っている。だから収穫はもともと神に帰属するもの。ミツギモノとして捧げ、神殿を建てたり祭祀を行ったりして神に返し、人はお下がりでもらう余り物で満足すべきなのだ。それを忘れると神が怒り、天変地異や飢饉を起こす。
現代的な合理思考で解釈してみます。本格的な潅がい稲作はとても生産性が高く、殻のままの米は長期保存や輸送に適しています。だから、直接生産に従事する人数の何倍も扶養できます。しかし、孤立している個人が努力しても豊かな稔りは得られません。野生種から何世代もの時間をかけて改良に改良を重ねた種籾。周囲の野生環境から切り離され、肥えた土壌が運び入れられ、時期ごとに水量を管理できる仕掛けのある水田。季節の移り変わりのタイミングをうまく捉えて苗代作り、代掻き、田植え、除草を行い、気候異変に備える知識・技術。潅がい施設の建設管理や農繁期の協働体制。収穫期までの食糧の蓄え。多種多様な道具。そういう過去と現在のさまざまな集団的知恵と蓄積された労働の相乗効果があってこそ、秋の収穫が期待できます。この効果は孤立した個人からも、その単なる数的な寄せ集めからも生まれません。個人のコントロールの及ばない力には神秘的なものが感じられるから、超越的な存在=神に仮託したのだと思います。
しかし神は人の目に見えず、具体的な指図を仰ぐことはできません。神と対話し、その言葉を人に伝え、人々に指図する存在があってこそ集団の力が現れます。その存在が首長層です。農耕の生産性が高くなり、余剰から各種の産業が生まれ、集団規模が大きくなるにつれて、首長層の仕事が増え、権威が強化されます。やがて彼らは特別な身分として、自分たちを他の人々から遠離します。生産者の産み出す余剰を神の名で自分の周りに集め、それを分配して序列秩序の頂点に君臨するようになります。一般の民衆は生産物と労働力を神の名で彼らに収奪され、許されたその余り物で生きていくことになります。彼らの生産活動は、自分と自分の親しい者の具体的な消費にかかわりのない部分で、現代の「賃銀労働」に似たものになります。
きつい労働を担う人々とその産物を享受する人々が分離すると、生産者の衣食住を満たす需要を超える余剰部分を拡大しようとする動機が生まれます。働く人々は、労働密度と効率の向上を強制されます。それでも部族的段階よりは食料が豊富で、飢饉では備蓄の放出も可能なので、人口増加率は高くなります。耕地が不足しさらに開発が促進されます。世界人口は、狩猟採集の600万年でようやく400万人にまで増加しただけなのに、その後文明が始まったからわずか1万2千年で66億人になりました。序列秩序が集団の潜在的力を現実化して、生産が大きく発展しました。地球上にかつて栄えた文明で、神の権威を背景に支配する階級をもたなかった例を、わたしは知りません。(明日に続く)