国道の秋 ムダの効用41-7

 
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 国道39号線で石北峠を越えると大雪山塊が見えはじめます。色づいた山肌と白い峰のコントラスとが秋のドラ
 
イブの魅力。糠平国道でもフロントガラス越しに雪山が望めました。
 
 
 東京からの一行が帰るのを待っていたように、気温が下がっています。今朝はわずかですが零下になりまし
 
た。霜と風で落葉が進むことでしょう。
 
       〔ムダの効用 41-7〕
 
まつろわぬ者たち()―7
 
律令国家の貴族と民衆〉
日本列島では、大化の改新(646)のころから中央の統治が直接地方に浸透するようになり、しだいに律令が整備され、国家としての実質が備わってきます。古墳時代ヤマトの倭王はクニグニの首長層を服属させ、彼らの神々をヤマトの大神の下に国神として序列付けました。クニグニで階層序列による広域的領民支配が実現するまでに、きっと数百年かかっています。律令政府はそれを引き継ぎ徹底させたのです。飛鳥時代の一時期、ヤマト王朝に服属したクニの首長が姓(かばね)を与えられ、国造(くにのみやつこ)として実質的に地方統治を継続していました。エミシ地域は部族社会なのでクニも首長支配もなく、したがって国造制も実施されていません。国造制が行われた地域では、やがて中央政府によって郡が建てられます。その役人(郡司)はかつての首長層の子孫や豪族から2人~8人を選んで、朝廷が任命します。そしていくつかの郡が国にまとめられ、郡司は中央から派遣された国司 (守、介、掾、目と史生) の指示・監視下に置かれます。網野(前出 上 109)によれば、天皇の称号と日本という国号が始まったのは689年の浄御原(きよみがはら)令からです。天皇は農耕儀礼の頂点を手中に収め(大嘗祭新嘗祭)、「大君は神にしませば・・・・・」が定型句になる(『万葉集205235,241,4260,2461)神聖王の地位を確立します。
奈良時代の推定人口約450万人(725)のうち、中央政府の省に勤務したり地方の国府に派遣されたりする官吏は、1万人前後とされています(網野 同前 119)。在地有力者である郡司にも位は与えられます。しかし位は自分が上の場合でさえ、中央から派遣された官吏に頭が上がらなかったようです。官吏は勤務評定で昇進する規定ですが、皇族や畿内貴族の家系以外(吉備氏や下野毛氏などは例外―坂上 同前 93)、ほとんど五位以上には昇進できません。五位以上が貴族で、その数はほぼ100人から300人程度。彼らは子弟が成年に達すると自動的に位が与えられる蔭位(おんい)の特権があり、大部分が皇族や畿内貴族です。その一人、藤原不比等に与えられた84里分の封戸は、先に触れたように、調庸全体の50分の1に当たります。皇族である高市皇子が所有しその子長屋王が継承した戸数は、不比等以上と推定されています。(坂上 同前 125) 彼らほどではないにしても、他の貴族にも職分田、職封、位田、位封、位禄が給されます。給された田は、祖だけは賦課される(不比等の封田では半分だけ)輸祖田ですが、天皇家の官田、寺社の寺田・神田はそれも免じられる不輸祖田です。(網野 同前 121123)
 公民と言っても彼らの労働の果実は、少なからぬ部分が皇族・畿内貴族の私的な消費に充てられます。坂上は「律令国家の成立とは、天皇を頂く畿内豪族による全国支配の達成という評価も可能となる」と、書いています(同前 125)。そして網野は、「この国家はこのように、畿内の首長の流れを汲む貴族・官人と各地域の首長・豪族とのあいだに、決定的ともいうべき差別を設けており、国家確立当初の日本国の本質は、あくまで畿内中心の国家であったといわなければならない」(同前 129)と。律令制は、100人から300人ほどの男たちが全国統治の頂点を独占するシステムです。その体制を維持強化するのが彼らの律令政治です。彼らにとって、全国民の9割を占める公民(残りの1割は有力者に所有される奴隷=賤―網野 同前122)のほとんどは、顔も知らない抽象的な数字だったでしょう。その数字がすなわち賦課・徴収できる物品や戦力・賦役の量です。(この項明日に続く)