光る海 ムダの効用41-5

 
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 ほの暗い海に昇る陽が作る光の帯が好きで、変わりばえはしないのですが、また撮ってしまいました。知床の
 
山影をバックにした赤い道の一枚が特に気に入っています。
 
〔ムダの効用 41-5〕
 
まつろわぬ者たち()―5
 
〈労働の始まり―承前〉
 
ひるがえって、日本列島で本格的な潅がい稲作が普及し、部族的な小集団からより広域的な首長社会へ移行した時代を考えてみます。29章で引用した資料では、南西諸島と北海道を除く列島の総人口は、縄文盛期が約26万人、弥生後期は約60万人、奈良時代で約450万人と推定されています。それなら古墳時代前期に100万人ほどの時代があったはずです。その段階で120のクニに分かれていたとすれば、一つのクニが平均で5千人。実際には千人ほどから数万人までさまざまだったでしょう。千人は20人ほどの戸が50戸で、奈良時代の典型的な里の規模です。ただし必ずしも20人ほどが一つの家屋でくらしていたわけではなく、戸は、近接した複数の住居に分散していた親族のまとまりを意味していたと思います。大きな家に複数のカマドがあって、日常的な食事は小家族ごとに行われる場合も考えられます。
坂上康俊奈良時代藤原不比等は84里を領しており、それが全国の50分の一にあたると書いています(『日本古代史④』岩波新書125))。84里の50倍は4千200里、総人口にして420万人。郡里制が行われなかった東北地方の分を加えると、29章の450万人という推定とほぼ一致します。千人は古墳時代から潅がい稲作を基調とする集落のふつうの規模だったのではないでしょうか。縄文時代最大の集落跡と目される三内丸山では、同時にくらした人数は最大でも500人と言われます。稲作集落は自然経済の部族集団よりずっと大きくなります。
ふつうは千人規模の単位集落がいくつかまとまってクニになります。水田は順調であれば豊穣な稔りをもたらします。初穂は稲作の神秘的な力を象徴するものとして、神に捧げられます。そのとき米といっしょにさまざまな調(みつぎ)や贄(にえ)が供され、酒が醸され、人も神もともに饗宴を楽しみます。神の言葉を聞くのは巫女(ふじょ=みこ)や巫覡(ふげき=シャーマン)であり、その周りに託宣にもとづく行動を指揮する集団があります。その中核を担うのがクニの首長(国主=くにぬし、または王)です。巫女や巫覡が首長を兼ねる体制も考えられます。初穂は彼らによって聖別され、彼らの責任で備蓄され、次の春に種籾として人々に与えられます。種籾が聖なる恵みをもたらすように祈り呪う(まじなう)のは、彼らの責任です。この儀式の一部は今に至るまで皇室に受け継がれています。
 巫女や首長は、神事や政(まつり)を専業として農耕に従事しません。しかし、彼らが神事や政を誤らず祈り呪う責任を果せば、生産者以外に、巫女・首長とそれを囲む人々(以後は首長層と呼びます)、それに役人・兵・工人・芸人などを養っても余りある収穫が得られ、その結果人口が増加します。単位集団の人口が千人を大きく超えると、集団を分割するために開墾が行われます。資本(種籾、収穫までの食料、農具・土木工具、知識・技術など)を提供し、人々を集めて集団作業を指揮するのは首長層です。大きな墳墓・道路・橋・倉庫などの建設、毎年の水路の補修も同じです。小規模な事業は、単位集団の長が各戸の長老に諮って進めるでしょう。毎年の農事にも、単位集団でいっせいに実施するもの、戸の責任で行なうもの、小家族が責任を負うものがあったと思います。(この項明日に続く)