黄金色の空 ムダの効用40-2

 タムラ、オオウバユリは他のユリとちがって、花が茎から直接横に突き出しているから整然としている印象です
 
ね。
 
 
 ゆめらじさん、ヒグマの皮はいまのロールスロイスみたいにステータスシンボルだったのでしょうね。敷物にした
 
り掛け物にして飾ったりしたと思うな。ツキノワグマとちがって本州にはない物だから、オレはこんな貴重な物も 
 
手に入れる力があるのだと誇示できます。オジロやオオワシの羽もそうだったようです。たくさん集めて部下など
 
に贈ったら、もらった人は有頂天になったかも。勢力拡大の道具としても使えます。
 
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 オホーツク海上空の朝雲です。陸より色鮮やかな気がします。刻々と形も色も変わるところがおもしろくて。
 
                             〔ムダの効用〕
 
40 まつろわぬ者たち(7-2)
北九州に大陸から潅がい稲作が到来して弥生時代が始まります。稲作は初めから完成度の高い産業として持ち込まれたと考えられています(網野 同前31頁、石川 同前6667)。開拓、導排水路・灌漑設備の設計と工事、すべての田に水がいきわたる地形の造成、田植えの技術、多種多様な鋤・鍬・穂摘み用具、種籾、高床式の貯蔵庫、農作業の時期を告げる暦の知識、そしてそれぞれ数十軒以上規模の複数集落による協働(石川 同前6468頁参照)。他にも開拓を始めてから収穫が安定するまで人々を給養する蓄えが必要です。さらに何より自前の狩猟採集や粗放栽培から人々を引き離して、共同作業に動員する強制力が。それらすべてが揃った場合にだけ、稲作集落が発展したのだと思います。九州から北陸・関東まで、潅がい稲作が普及するのとほぼ同時期に、集落を堀で囲む環濠集落が現われています(石川 同前 749192123)。稲作は集団の防御や長(おさ)を中心とするまとまりの意識と密接に結びついていたのでしょう。
39章で弥生時代前夜(縄文末期)BC900年、九州総人口は6.300人と推定しました。いま(09年現在で1.325万人)1/2000以下の人口密度です。潅がい稲作に必要な一そろい(統制された社会秩序・知識・技術・道具・備蓄食糧・種籾など)を携えて、まとまった人数で渡来すれば、ほとんど無人の原野を占拠して農耕集落を営むことができたと思います。弥生時代だけでも何度か、朝鮮半島や華南から波状に渡来が繰り返されたのではないでしょうか。稲作の長江文明人は華北から侵略を受け、東南アジアや四川盆地などへ溢れていったようです(ジャレド・ダイアモンド⑤ 186187頁参照)。日本列島には国境の障壁などなかった時代です。彼らの一部が山東・遼東地方にたどり着いてそこから海路で、あるいは諸国家の覇権争いが始まっていた朝鮮半島の南部稲作地帯から戦乱に追われて、人々が九州に渡来する事態は十分考えられます。
もともと九州は(他の西日本各地も)東北地方や北海道のように自然の食料が豊かな土地ではありませんでした。狩猟採集の10倍とか100倍とかの効率で食料を得られるとわかれば、この地の先住者は進んで渡来人の文化を受け入れたかもしれません。あるいは彼らが抵抗したとしても、容易に制圧されたでしょう。渡来人集団は稲作だけでなく集団的な戦争の経験とすぐれた武器も携えていたはずですから。渡来者がもたらした弥生文化に同化した縄文人が、渡来系弥生人と区別して縄文系弥生人と呼ばれることがあります。当初は地域ごとにどちらが数的に優勢だったのかはわかりませんが、しだいに混血が進んだと思われます。渡来と効率的な食料生産によって、九州の人口はAD200年には105.100(BC900年の16.7)に増加しています。
北九州以外の南九州、山陽・四国地方、瀬戸内海・近畿地方、山陰・北陸西部では、各地で北九州とは別な渡来人集団が稲作文化の核になったのか、それとも在地のあるいは他地域から移動してきた武力集団が推進者になったのかはわかりません。いずれにしても、武力と稲作に必要な一そろいの条件をもつ集団が現れて、稲作化が進んだのでしょう。BC900年に対するAD200年での人口増加は、中国・四国が37.2倍、近畿が50.3倍です。九州より少ない人口(2.600人と2.000)から始まったので、増加率が大きくなりました。遅れて弥生中期に稲作集落が現れる中部・関東では、渡来系を混じえて畿内から進駐してきた集団が核になって一気に稲作化が進んだのだと思います。それが石川日出志に「突如」という印象を与えたのでしょう。縄文末期の人口が東北に次いで多かった(17.700)中部は、AD200年での人口増加率が9.1倍、関東(7.700)12.9倍です。ちなみにBC900年に39.600人と人口が最大だった東北は、0.85倍に減少しています。   
住民の組織化に成功し初期投資の効果が現れて順調に稲作が定着すれば、必需消費を大幅に上回る余剰が毎年蓄積されます。それが均等に住民間で分配されることはなかったと思います。人々の意識の表面では、今のような分析的・合理的思考より、直感的・兆候感知的思考のほうがずっと優勢な時代です。新しい知識や技術は新しい呪術と区別されず、個人に還元されない組織の力は新しい神の威力と考えられたでしょう。蓄積された富は、初め共同の備蓄としての意識が残ったとしても、やがてその管理に当たり祭儀を主催し戦争と共同事業を指揮する人々の、自由な処分に委ねられるようになります。彼らはそれを、稲作の更なる拡大や近隣集団に対する支配権確立に使います。田畑開拓の資本として、武力充実の原資として、自分たちとその神の威力を誇示する手段として。
渡来者には稲作関連以外にも各種職業集団が含まれていました。土木工事、製塩・漁撈・海戦・海上交通、紡織、製紙、製鉄や金属製品の鍛造・鋳造、土師器・須恵器の製作、文字・宗教思想・芸能、などです(網野 同前 5051頁、石川 同前 83)。そして彼らは大陸や半島で階層序列と領域的支配の社会秩序になじんでいました。網野は弥生・古墳時代の渡来人口を100万から150万人とする推計に言及しています(同前50)。前章の推計では、列島総人口はAD200年で594900人、725年で4512200人です。吉村武彦は、平安初期のものですが、氏族の名前で3割が帰化系に占められている資料を示しています(同前105) 新しい生産様式と一体になった彼らの社会秩序は、当然「縄文系弥生人」にも浸透したはずです(明日に続く)