寒雀 ムダの効用 38

 そらさんが小鳥をかわいいと言ってくれたので、今日は雀を。冬の雀にはふくら雀という俳句用語もあるみた
 
い。寒さに対抗して羽をふくらませて丸くなった様子からでしょうね。
 
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                            〔ムダの効用 38〕
 
まつろわぬ者たち()
 
   葦(あし)原の 瑞穂(みずほ)の国を 天降(あまくだ)り しらしめしける 天皇(すめろ)の 神の命    
   (みこと)の 御代重ね 天(あま)の日嗣(ひつぎ)と しらし来る 君の御
    代御代 敷きませる 四方の国には (中略) 鶏が鳴く 東(あずま)の国の 陸奥(みち
    のく)の 小田(おだ)なる山に 金(くがね)ありと 奏(そう)し賜へれ (中略) 大伴の 
    遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負い持ちて 仕えし
    (つかさ) 海行かば 水漬(みず)く屍(かばね) 山行かば 草生()す屍(かばね) 大
    (おおきみ)の 辺()にこそ死なめ 顧みは せじと言立(ことだ)て 丈夫(ますらお)
    の 清きその名を いにしへよ 今の現(をつづ)に 流さへる 祖(おや)の子どもぞ (後略)
            反歌三首のうち一首
   天皇(すめろぎ)の御代栄むと東(あずま)なるみちのくの山に金(くがね)花咲く     
 
 引用は万葉集4094「陸奥国より金(くがね)を出(いだ)せる詔書を賀く(ことほぐ)
 
一首並びに短歌」(大伴家持)からです。万葉集の成立には大伴家持が重要な役割を果
 
したとされ、全20巻(約4500首)のうちの4巻が彼とその関係者の歌になっていま
 
す。家持は越中国司のとき、聖武天皇が発した金発見の詔書に接し、この歌を詠みまし
 
た。「海行かば 水漬(みず)く屍(かばね) 山行かば 草生()す屍(かばね) 大君(おお
 
きみ)の 辺()にこそ死なめ 顧みは せじ」の部分は、戦時中、大本営が玉砕の発表
 
をする際に奏された歌の詞に使われました。終戦時わたしは5歳でしたが、この文句は
 
メロディーとともに記憶に刻まれています。陸奥で金の発掘に成功したとの報が朝廷に
 
届いたのは西暦749年。生まれて数百年の若い国家が、天皇のしらしめす(治下に置
 
)領地を北に広げようと、割拠してまつろわぬ東北エミシに武力で対峙していた時期で
 
す。
 
 このとき初めて国産の黄金900両を献じたのは、当時陸奥国司であった百済王敬
 
福です。彼は人質として百済から渡来した王子の子孫。663年に百済と朝廷の水軍
 
が、白村江で新羅を支援する唐の水軍に大敗し、百済は滅亡します。その後たくさんの
 
百済人が列島に逃れ、数千人が近江や東国などに配置されました。敬福は探鉱・採鉱の
 
技術をもつ半島からの移住者を指揮して、産金に成功したのでしょう。彼はその功で7
 
階級昇進し従三位に叙されます。皇室や有力な朝廷人の家系には、彼だけでなく他に
 
も、列島に先駆けて覇権を争った半島人の姓が散見されます。
 
 採鉱作業に従事したのは、百姓(ひゃくせい)・俘囚・蝦夷(えみし)です。百姓は租
 
庸調を課せられた公民で、東北には北陸・東海・関東の各地から移住させられた人々が
 
多くいました。俘囚は投降した蝦夷で、衣食を官給され、労役や軍役に服したり、食料
 
生産をさせられたりしていた人々。そしてそれ以外の蝦夷は、朝廷側に服属する形をと
 
っていた族長に命じられて、作業に赴いたと思われます。(陸奥の産金については『古代
 
蝦夷からアイヌへ』天野哲也・小野裕子編 吉川弘文館 2007年刊 3345頁 関口明 
 
参照)
 
 蝦夷(古くは毛人と表記)は律令制の外にある東北・北海道の住民に対する、朝廷側
 
の呼称です。八木光則によれば、近畿の朝廷で蝦夷の概念が成立したのは6世紀(同前 
 
147)。夷の字が充てられた(蝦はエミ→エビ=蝦から? )のは、中華国家が域外の諸族を
 
南蛮、西戎、東夷、北狄と呼んでいたことに倣(なら)ったと思われます。もともとの
 
エミシという言葉には、蔑称のニュアンスはなく、域外の勇猛な人々を意味していたよ
 
うです。古くは毛人や蝦夷を個人名とする朝廷側の要人もいました。蝦夷は後にエゾと
 
読まれるようになり、北海道のアイヌを指す言葉になります。(『古代蝦夷工藤雅樹 
 
吉川弘文館 2000年刊 822頁参照)この地の住民自身にエミシというアイデンティ
 
ティーがあったかどうかは不明です。そもそも彼らは部族的集団を作っていて、何か事
 
に当たるときには連合しても、個別集団を超える同胞意識が生じていたとは思えませ
 
ん。
 
 章の冒頭で引用した大伴家持の歌には、天皇に対する宗教的な忠誠心と、天皇に忠誠
 
を捧げて栄えてきた自分の一族に対する強烈な自負心が表現されています。時の天皇
 
奈良時代聖武ですが、万葉集前期(飛鳥期)を代表する歌人柿本人麿も、天皇を神とす
 
る思想を渾身の力で歌ったとされています(中西進万葉集()解説 28頁)聖武
 
皇は陸奥から献上された黄金に強い歓びを表します。彼は自分が統治する社会の不安定
 
化と騒擾に苦しんでいました。墾田永代私財法を出さざるを得ない公地公民制の揺ら
 
ぎ、皇族や有力貴族の対立抗争の頻発、公民の逃亡・浮民化、飢饉・疫病など、悩みが
 
尽きません。仏教を恃み、鎮護国家の宗教としての霊験に望みを託し、743年に金銅
 
大仏建立の詔(みことのり)を発します。そこに届いた金発見の報ですから、仏の加護の
 
現われとも思えたのでしょう。
 
 矛盾があり対立があって現実の統治は悩ましくとも、若い国家の指導部とそれを支え
 
る廷臣には、人々の共同意思を大きく求心的に統合する国家への烈々たる志向がありま
 
す。それが朝廷側にあってエミシ側になかったものです。朝廷は列島東北の蝦夷や南の
 
隼人を武力で攻めたり威嚇したりして服属させようとします。そして任那官家喪失(562)や白村江の
 
敗戦の後も、耽羅新羅、高麗、渤海などの半島諸国に朝貢を求め続けます。大陸の
 
中華帝国に倣い、東方の天下を統べるミニ帝国であることを外に示し自らも確認す
 
る、それが求心的統合を維持するためにも、天皇家・貴族・地方に配属された官僚や
 
武人のアイデンティティーにとっても、不可欠だったと思われます。この志向はすで
 
倭王の時代(弥生時代後期から古墳時代)に芽生えていたことが、中国史書に残る記録
 
で確かめられます。彼らは漢、後漢、魏、宋、斉、梁の朝廷に使者を派遣し、列島と
 
朝鮮半島の宗主たる地位につながる称号を請うていたようです。
 
 列島西部が弥生時代に入って2,300年後には、東北地方北部にまで潅がい稲作が
 
到達します。しかし東北地方がそのまま弥生文化圏に入ったのではなく、北部ではその
 
後稲作が衰退し(寒冷化が主因)、紀元前後のそれぞれ数百年間、東北一帯では北海道と
 
ともに続縄文文化のくらしが続いています。 (『日本古代史1』前出 133134頁参照) 
 
この時期のまとまった竪穴住居跡は発見が少なく、人々は小集団で半ば遊動生活を送っ
 
たのではないかと推測されています。工藤雅樹は、前半期(BC400-AD200)
 
続縄文社会では、道東、道北、道央、道南、本州東北地方の五つの小文化圏が並立して
 
いて、後半(AD200-AD600)に一つの文化圏にまとまった、と言います(『古代
 
蝦夷』前出 5051)。その影響は古墳文化が進出していた今の新潟県宮城県にまで
 
及んだようです。
 
 5世紀以後はしだいに、東北・越後地方でも南の仙台平野、会津盆地、越後(新潟)
 
野など稲作があまり衰退しなかった地方から、水田耕作、須恵器、鉄製品などをともな
 
古墳文化が北上を始めます。宇部則保によれば(『古代蝦夷からアイヌへ』前出1081
 
09)青森県南東部の、1.5キロの至近距離で発見された5世紀の二つの遺跡が、片方
 
古墳文化遺跡でもう一つが続縄文文化遺跡だったそうです。古墳文化の指標となる前
 
方後円墳は岩手県南部の角塚古墳が最北とされています。続縄文文化の地と思われてい
 
たいまの青森にさえ、すでに5世紀後半に古墳文化の集落跡がありました。朝廷勢力の
 
政治的プレゼンスが東北一帯に及ぶ前から、両文化集団が接触・交易・混在していたと
 
思われます。
 
 わたしが参照した他の歴史書は、一度本州北端に達した稲作が東北ではその後衰退
 
し、この地で続縄文文化が隆盛したことを認めています。ところが関口明の『古代東北
 
蝦夷と北海道』(吉川弘文館 03年刊)には、ニュアンスのちがう記述があります。
 
彼は東北南部には紀元前後に、北部には1世紀中ごろから2世紀ごろに稲作が波及し、
 
その後は徐々に狩猟民の段階から稲作農耕民の段階に進んでいたと考えています(89
 
頁、23)。朝廷側が狩猟段階の蝦夷を蛮夷とし、農耕民である「皇民」に差別意識を抱
 
かせようとした意図を批判する口ぶりです。早期の稲作を強調することで、蝦夷が野蛮
 
だったわけではないと言いたいのでしょう。関口自身に狩猟より栽培のほうが進んだ文
 
化であるとの思い込みがあるようです。(明日に続く)