寒雀 ムダの効用 38
そらさんが小鳥をかわいいと言ってくれたので、今日は雀を。冬の雀にはふくら雀という俳句用語もあるみた
い。寒さに対抗して羽をふくらませて丸くなった様子からでしょうね。
〔ムダの効用 38〕
まつろわぬ者たち(5)
(みこと)の 御代重ね 天(あま)の日嗣(ひつぎ)と しらし来る 君の御
のく)の 小田(おだ)なる山に 金(くがね)ありと 奏(そう)し賜へれ (中略) 大伴の
遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負い持ちて 仕えし
君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ 顧みは せじと言立(ことだ)て 丈夫(ますらお)
の 清きその名を いにしへよ 今の現(をつづ)に 流さへる 祖(おや)の子どもぞ (後略)
反歌三首のうち一首
したとされ、全20巻(約4500首)のうちの4巻が彼とその関係者の歌になっていま
をする際に奏された歌の詞に使われました。終戦時わたしは5歳でしたが、この文句は
メロディーとともに記憶に刻まれています。陸奥で金の発掘に成功したとの報が朝廷に
く)領地を北に広げようと、割拠してまつろわぬ東北エミシに武力で対峙していた時期で
す。
百済人が列島に逃れ、数千人が近江や東国などに配置されました。敬福は探鉱・採鉱の
技術をもつ半島からの移住者を指揮して、産金に成功したのでしょう。彼はその功で7
階級昇進し従三位に叙されます。皇室や有力な朝廷人の家系には、彼だけでなく他に
も、列島に先駆けて覇権を争った半島人の姓が散見されます。
庸調を課せられた公民で、東北には北陸・東海・関東の各地から移住させられた人々が
多くいました。俘囚は投降した蝦夷で、衣食を官給され、労役や軍役に服したり、食料
生産をさせられたりしていた人々。そしてそれ以外の蝦夷は、朝廷側に服属する形をと
参照)
147頁)。夷の字が充てられた(蝦はエミ→エビ=蝦から? )のは、中華国家が域外の諸族を
エミシという言葉には、蔑称のニュアンスはなく、域外の勇猛な人々を意味していたよ
ティーがあったかどうかは不明です。そもそも彼らは部族的集団を作っていて、何か事
に当たるときには連合しても、個別集団を超える同胞意識が生じていたとは思えませ
ん。
を捧げて栄えてきた自分の一族に対する強烈な自負心が表現されています。時の天皇は
皇は陸奥から献上された黄金に強い歓びを表します。彼は自分が統治する社会の不安定
化と騒擾に苦しんでいました。墾田永代私財法を出さざるを得ない公地公民制の揺ら
ぎ、皇族や有力貴族の対立抗争の頻発、公民の逃亡・浮民化、飢饉・疫病など、悩みが
尽きません。仏教を恃み、鎮護国家の宗教としての霊験に望みを託し、743年に金銅
大仏建立の詔(みことのり)を発します。そこに届いた金発見の報ですから、仏の加護の
現われとも思えたのでしょう。
矛盾があり対立があって現実の統治は悩ましくとも、若い国家の指導部とそれを支え
る廷臣には、人々の共同意思を大きく求心的に統合する国家への烈々たる志向がありま
す。それが朝廷側にあってエミシ側になかったものです。朝廷は列島東北の蝦夷や南の
隼人を武力で攻めたり威嚇したりして服属させようとします。そして任那官家喪失(562)や白村江の
中華帝国に倣い、東方の天下を統べるミニ帝国であることを外に示し自らも確認す
る、それが求心的統合を維持するためにも、天皇家・貴族・地方に配属された官僚や
武人のアイデンティティーにとっても、不可欠だったと思われます。この志向はすで
で確かめられます。彼らは漢、後漢、魏、宋、斉、梁の朝廷に使者を派遣し、列島と
朝鮮半島の宗主たる地位につながる称号を請うていたようです。
列島西部が弥生時代に入って2,300年後には、東北地方北部にまで潅がい稲作が
到達します。しかし東北地方がそのまま弥生文化圏に入ったのではなく、北部ではその
後稲作が衰退し(寒冷化が主因)、紀元前後のそれぞれ数百年間、東北一帯では北海道と
この時期のまとまった竪穴住居跡は発見が少なく、人々は小集団で半ば遊動生活を送っ
続縄文社会では、道東、道北、道央、道南、本州東北地方の五つの小文化圏が並立して
いて、後半(AD200-AD600)に一つの文化圏にまとまった、と言います(『古代
及んだようです。
野など稲作があまり衰退しなかった地方から、水田耕作、須恵器、鉄製品などをともな
たいまの青森にさえ、すでに5世紀後半に古墳文化の集落跡がありました。朝廷勢力の
政治的プレゼンスが東北一帯に及ぶ前から、両文化集団が接触・交易・混在していたと
思われます。
わたしが参照した他の歴史書は、一度本州北端に達した稲作が東北ではその後衰退
し、この地で続縄文文化が隆盛したことを認めています。ところが関口明の『古代東北
彼は東北南部には紀元前後に、北部には1世紀中ごろから2世紀ごろに稲作が波及し、
その後は徐々に狩猟民の段階から稲作農耕民の段階に進んでいたと考えています(8・9
かせようとした意図を批判する口ぶりです。早期の稲作を強調することで、蝦夷が野蛮
だったわけではないと言いたいのでしょう。関口自身に狩猟より栽培のほうが進んだ文
化であるとの思い込みがあるようです。(明日に続く)