白い湖 ムダの効用 38(承前)

 まりさん、検診お疲れさま。わたしもCTスキャンうけました。再発転移はないけど肺の細く白い線が気胸だと。
 
自覚症状がないと言うと、ふしぎですねー、で終わりました。くらしに不自由がなければ気にしません。気胸って
 
自然治癒もあるし。といっても、パイプもくもくで森を歩き回っていて、それはないか。
 
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 2月末の屈斜路湖は温水の湧くあたりを除いてまだ真っ白です。もうすぐ割れた氷が岸に吹き寄せられて、ミ
 
ニ氷山みたいになるかな。
 
                        〔ムダの効用〕 
 
 38 まつろわぬ者たち(5)―承前
 
 すでに縄文時代から狩猟採集の傍らで栽培が行われていました。アイヌ期までの狩猟
 
採集と栽培を併用する文化は、気候の変動と集団の事情に合わせて、獲物や作物の種類
 
を変えたり、生業の重点を移したり、集団規模を伸縮させたりして生残りを図る柔軟性
 
があったと思います。穀物栽培、特に一種類だけに特化していると、冷夏・旱魃・洪
 
水・火山噴火や病虫害などの災害で作物が全滅し、飢饉が広がる恐れがあります。穀物
 
生産に頼れば効率が10から100倍に向上する一方で、環境変動に対して脆弱になり
 
ます。
 
  大和朝廷期の国家は「豊葦原瑞穂(とよあしはらみずほ)の国」を称し水田稲作を強
 
 調しています。しかし網野善彦が指摘するように(『日本社会の歴史』上132)、平民
 
 の生業は多様性に富でいました。水田の他に焼畑、麦・豆・アワなど多様な穀物の畑
 
 地を経営し、栗の木や柿の木を育て、キノコ・ヤマノイモ・野山の果実・山菜を採
 
 り、狩や漁をします。女性は養蚕を行い麻や布を生産します。漆器や木器の生産も、
 
 製鉄・炭焼き・木材の切り出しや加工もあります。海辺では網漁・釣り・海藻や貝の
 
 採集、製塩、海上通運にも従事します。生業が多様ですから、各地でその産物を交換
 
 する市庭(いちば)がにぎわいます。ところが律令国家は、統治下のすべての平民を戸籍
 
 で掌握し、均しく口分田を耕作して租庸調を負担する民であるように求めます。それ
 
 ぞれの地域に適した知恵を代々受け継いで、柔軟で雑多な生活をしていた民衆の現実
 
 と、政府が描く唐がモデルになった斉一的な公民の観念は、最初からすれちがってい
 
 ます。
 
北海道を含め続縄文文化は、弥生・古墳文化と密に交流し、前代から引き継いだくら
 
しにその物産・技術をプラスして成立した文化です。一方関東以西の弥生・古墳文化
 
にも、蝦夷の物産や彼らが列島外の大陸北方からもたらす品は貴重でした。東北地方は
 
北方文化と西方文化の交易地です。鈴木信は、北海道の続縄文人集団が交易仲介のため
 
に東北地方に移住したとしています(『古代蝦夷からアイヌへ』前出353)。そして先に
 
述べた近接する両文化の遺跡発掘に見られるように、弥生・古墳文化人でこの地に住み
 
着いた集団もあったでしょう。もともとの潅がい稲作は、東北の続縄文人にとって、多
 
様な生業レパートリーを一つ増やすという意味しかなかったと思います。それまでの生
 
業より有利なら拡大するし、そうでなければ交易で米や酒を入手する方を選びます。北
 
海道では続縄文期からアイヌ期を通じて後者が選択されました。
 
 東北地方では近畿国家のプレゼンスが強くなるにつれて、住民の自由なくらしが制約
 
されることになります。5,6世紀までは、半遊動的な狩猟採集に重点を置くのも、畑
 
作栽培を併用するのも、条件のある場所を見つけて潅がい稲作を拡大するのも、それぞ
 
れの集団の判断と選択に委ねられていたと思います。そしてそれぞれの集団は有無を交
 
換する交易を活発に行います。この時期はまだ、36章で引用した「集落は贈与・呉酬
 
によって相互に結びつくとともに、恒常的・広域的な交易によって支えられていた」と
 
いう網野善彦の表現が妥当したでしょう。8世紀に事態は急激に変わります。それまで
 
の朝廷は蝦夷の地に拠点を築く一方で、彼らになじもうとしない集団でも、国家の威に
 
服する形の朝貢交易に応じれば認めていました。ところがこの時期、大伴家持の歌に見
 
られる、国家の威信と自分の一族の繁栄を重ねる人々の態度がアグレッシブになりま
 
す。対するエミシの側でも大部族あるいは首長社会集団が成長し、その結果、東北地方
 
は激しい戦争の時代に入りました。(続く)