白い山 ムダの効用 34

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 降雪後の晴れた空は空気が澄んでいて、高台に車を走らせると、普段は美幌から見えない遠くの山も白い姿
 
をくっきり現していました。最後の一枚は知床半島の付け根に横たわる海別岳です。その前が斜里岳で、はじめ
 
の二枚はなじみの藻琴山
 
            〔ムダの効用〕
 
 34 まつろわぬ者たち(1)
 
 征服した在地勢力のことを伝える中央権力の歴史書には、被征服者が貧しいとか、無
 
知だとか、蒙昧だとか、野蛮だとか、たいてい敗者を貶める表現が含まれています。滅
 
びた社会が文字記録を残していない場合、考古学や文化人類学などの考証があるていど
 
進展するまでは、勝者側の記録を根拠とする歴史観が流通するのがふつうです。アイヌ
 
は伝統的社会をほとんど壊滅させられた後にも、口承の物語で記憶を伝える少数の人々
 
がいました。それにアイヌと親しく接した和人の何人かは、彼らの精神生活の価値に気
 
づいて書き残しました。ところが東北地方の「エミシ」については、そのような手がか
 
りさえほとんどありません。しかし、もし彼らがアイヌとともに縄文的精神を継いだ
 
人々であるという推理が当たっていれば、縄文文化を見直すことで、彼らが何を守ろう
 
として朝廷勢力に抗ったのか、少しは見えてくるかもしれません。
 
 わたしの少・青年期は20世紀の中ごろです。時代の影響でしょうか、こんなイメー
 
ジに捉われているところがありました。狩猟採集段階の人々は野蛮・未開の薄暗い森
 
で、獣のような貧しいくらしをしていた。農耕牧畜が始まってようやく、人らしい文明
 
に向かって出発する、みたいな。しかし最近、ここ20年ほどの新しい資料であらため
 
て学びなおして気づきました。わたしが無意識に受け入れていたイメージは時代の無知
 
と偏見が生んだフィクションだったようだ、と。縄文人は農耕牧畜の能力がなかったか
 
ら狩猟採集を主とする生活を続けたわけではなく、あえてそれを選んだのではないか。
 
人々を政治的・軍事的な大きな集団に統合する道を、序列秩序を忌み嫌ったから選ばな
 
かったのではないか、いまはそう考えています。
 
 かつて流布されていた縄文の貧しいくらしのイメージは、1992年以後に青森で三
 
内丸山遺跡の発掘が進んだこともあって、今では大きく修正されています。ここで発掘
 
されたのは、紀元前3千5百年から2千年の約千5百年間続いた(古墳時代から現在まで
 
に匹敵!) 大集落の跡です。広さは35ヘクタール。最大の推定では、同時に5百人近く
 
がこの集落でくらしたとされています。関東・東北・道南の集落から、祭祀や交易で人
 
が集まる拠点だった可能性があります。35センチの倍数の規格(縄文尺)で計画的に
 
造成され都市的な空間です。中心広場、道路、大型建造物(90畳敷きほどの広さがある
 
大型の竪穴建物や、太さ1メートル近い6本の柱に支えられた巨大な高床式掘立柱建造物
 
を含む)、5百以上の建物、モノ送り場(不要になった物を神に送る場所=盛土)、墓
 
地などの跡が残っています。(岡村道雄『縄文の生活誌』改訂版 講談社02年刊138
 
141頁)縄文尺は縄文前期(紀元前4千5百年前から)から東日本の他の場所でも使われ
 
ていたし、弥生時代以後とされていた掘立柱建物も縄文時代からふつうに作られていた
 
と推定されています(159)
 
  食料について岡村はこう書いています(同238頁)。
 
 以上を総合すると「縄文時代には、すでに栽培が行われていた」と、確信を持って
  いっていいであろう。ただし、栽培を第一優先に考えてはいなかったようだ。たしか
  に栽培種も知ってはいたが、かといって、特定の栽培植物に頼るような生活は選択さ
  れなかったと私は考えている。なぜなら、これまで述べてきたように、食料は不足し
  ていなかったからである。
 岡村はクリ、ヒョウタンの仲間、豆類、エゴマアブラナ類、アサ、ゴボウ、ソバなど
 
 が栽培されていて、なかには朝鮮半島経由や北まわりと考えられる外来種も含まれてい
 
 るとしています(237238)
 
 『新北海道の古代1』のなかで阿部千春は縄文時代の食料について、「基本的には狩
 
猟・採集をしながらも、有用な植物(クリとヒエが挙げられている―引用者)を栽培し、と
 
きには交換によって他地域の食料を得るなど、現在とそれほど変わらないくらい複雑に
 
成り立っている」としています(98)。なお阿部はヒエについて、酒造用の可能性がある
 
と推定しています(99)。お酒といえば、岡村の推定はニワトコの実から作られていたと
 
いうものです(237)。クッキー、パン、まんじゅうに似た食品もあります。アク抜きを
 
したドングリ類を粉にして、ヤマノイモを混ぜ、エゴマ、シソ、ノビル、ギョウジャニ
 
ンニクなどで香りをつけたようです(岡村232233)。砂糖はなかったと思いますが、製
 
塩は始まっています。
 
  季節ごとの自然の恵みと加工・保存・貯蔵技術の工夫によって、縄文人の食生活は
  現代人の想像以上に十分に豊かであった。歯や骨に栄養障害が認められる例はほとん
  どなく、逆に、歯にはデンプン質の付着による虫歯が多く見つかっている。乳幼児の
  死亡率の高さと平均三十余歳という短い寿命が相まって、おのずと人口増も抑えら
  れ、食料が不足することはなかったと考えられる。(岡村226)
  「平均三十余歳という短い寿命」についてはこの後で検討します。岡村は縄文人の主
 
要エネルギー源は植物のデンプン質だったと考えています。この点はほとんどの論者が
 
合意しているようです。しかし阿部は、本州はそうでも北海道はちがっていたと言いま
 
す。本州縄文人の虫歯率14.77%に対し北海道縄文人は2%で、シカなどの陸獣以
 
外に海獣や魚介類に大きく依存していたから虫歯がほとんどなかった、と(同前98126
 
)アイヌを含め、北海道先住民が農耕中心の文化を受け入れなかったのは、豊かな動
 
物性食品に恵まれていたことが一つの理由でしょう。
 
 わたしは1940年代末から50年代にかけての少年期に、越後の雪深い山村で貧し
 
い農家の同級生たちのくらしを垣間見たことがあります。屋根は茅葺で床に畳はなく、
 
土間と板敷きです。囲炉裏のある部屋の隣で、むしろを敷きワラ布団にくるまって寝
 
ます。日常の主食は、練ったアワやヒエの粉で野沢菜の漬物を包み、囲炉裏で焼いたも
 
のです。副食は自家製の味噌を使った味噌汁、漬物、野菜、豆類。油は貴重品です。燃
 
料は森から集めてくる枯枝や杉の枯葉。9人生まれた兄弟姉妹のうち、3,4人が中学
 
生にまで成長すればふつうだと考えられていました。農耕用の馬を飼う家はわずかで、
 
ほとんどの村人は人力を頼りに狭い田畑を耕しました。米や鶏卵は貴重な換金用品で普
 
段は自家消費できません。その他の現金収入は繭と和紙原料のコウゾの皮から。冬は自
 
家消費するワラ靴、ぞうり、蓑、むしろなどを編んで過ごします。縄文の人々は森や海
 
で日常的にたくさんの動物性食品を手に入れていました。少なくとも食については、貧
 
しいわたしの同級生より恵まれていたと思います。
 
 さて、「平均三十余歳という短い寿命」についてです。31章で平均寿命は「客観的
 
幸福度」の一つの指標のような面があることに触れました。これまで読んだ歴史書は縄
 
文人の寿命についてたいてい似たような推定をしています。40歳を超えて生きる人が
 
あまりいないとなれば、少なくとも物質的には豊かとは言えません。しかし、今年(20
 
10年)11月13日の朝日新聞で、「実は65歳以上とみられる個体(縄文人の―引用者)
 
が全体の3割以上を占める」、という研究結果が報道されていました。人類学・古人口学の研究者
 
である長岡朋人が「月刊考古学ジャーナル」臨時増刊号に発表したのだそうです。従
 
来の推定より寿命が長いということに、多くの考古学者から肯定的な意見が寄せられ
 
ていると、この記事は付け加えています。
 
 07年の日本は65歳以上の人口が21.5%で、平均寿命は82.7歳です。3割
 
というのはこれを超えることになり、にわかには信じられない数字です。もっとも、
 
「全体」が何を意味しているか調べないと、はっきりしたことは言えませんが。それで
 
も、「平均三十余歳」は今後修正される可能性があります。ちなみに、日本で平均寿命
 
が60歳を超えるのは、ようやく1950年代からです。明治末期で44.5歳、19
 
35年で48.3歳。(厚労省第19回生命表から) 今でもアフガニスタンやアフリカ諸
 
国など、世界17カ国の平均寿命は40歳台です(2007年現在)(続く)