そらさん、アカゲラはキツツキの仲間ですから、幹や枝を叩いて樹皮の下に潜む虫を食べているのだと思いま
す。ミヤマカケスの食べ物は何でしょうねー。今日はそらさんに師走の空を。
今朝5時の美幌の気温をたしかめたら、-17.4度でした。4月以後では一番の冷え込みでしょうか。昨日は
雪かきをしたし、いよいよ本格的な冬です。
〔ムダの効用 33〕
斎藤成也は日本列島を、ヒトやその他の生物がユーラシア大陸から移動してきて行き
止った「吹きだまり」と表現し、次のようなヒトの移住経路を図示しています(『DNA
をたどった人々の出自について、篠田謙一はインド・東南アジアから北上した集団以外
に達した後、東進した集団も考えています(『日本人になった祖先たち』(NHKブック
ス 07年刊 84・98頁)。
この斎藤と篠田の二冊、前回言及した『科学』の記事、④⑤、それに崎谷満の『DN
いてわたしの脳裏に浮かんだシナリオは次のようなものです。
出アフリカ後の狩猟採集段階の現生人類が、5万年ほど前に複数の経路で東進・北上
至ります。その途中の、一緒に移動したり各地に住み着いたりした人々の集団で、DN
Aやそのほかの生体分子に変異が蓄積し、それぞれのハプログループが分化します。東
シナ海(当時は浅海と陸)から北上する途中で、先島・沖縄などの南西諸島に住み着いた
集団も考えられます。彼らの土器には縄紋がなかったようです。あるいは大陸東岸沿い
して、当時陸続きだった大陸北方・サハリンから北海道へ。斎藤さんの経路では4,
1,2です。彼らがきっと旧石器時代からの、一番古い列島弧住民です。3の経路での
渡来も、縄文期以後のことだったり人数が少なかったりするかもしれませんが、絶無で
はないでしょう(斎藤101頁)。
紀元前8千年ごろから、長江流域に米を主体とする農牧の文明が、黄河流域に粟やそ
になります。この集団が膨張する過程で、周辺の狩猟採集民と長江流域の米作民を殺
戮・駆逐して、それらの地域で大規模な住民交代が起きます。駆逐された華南の諸集団
が南下し、東南アジア地域でも先住民との交代が生じました。押し出された人々のなか
から、南太平洋の島々に乗り出す集団が現れ、やがて南米にまで達します。(参照:⑤1
ったりした集団もあるようです。彼らのなかから1,5,6の経路で九州や本州に来た
人々がいて、縄文後期(紀元前2.500年から1.200年ころ)から本州諸島のハプ
ログループ多型を増加させたのでしょう。経路は同じ1でも、大陸や半島で分化・混血し
た上での渡来ですから、列島先住旧石器人直系のグループとは組成が異なるはずです。
色体DNAなどの祖形を滅ぼしたりかき混ぜたりする効果を及ぼしたとすれば、古いタ
イプは辺境以外ではあまり残らなかったかもしれません。漢人王朝を中心に見れば、日
以前の祖形に近い形が残りやすいと考えれば、納得できます(参照:篠田170頁 崎谷2
どの北方系諸集団が入り込みました。度重なる住民交代で祖形に近いハプログループは
半島から消え、日本列島に逃れた人々だけが現代に伝えることができた、という可能性
があります。
「このように日本列島は非常にDNA多型性が高い地域である。それもかなり遠隔な
ヒト集団が現在も共存しているという世界的にも珍しい地域である。(崎谷34頁)」出ア
フリカを果し世界各地に拡散しようとしていた現生人類の波。そして食料生産を始めて
国家的に編成された強力な集団に直接圧迫されたり、玉突き状に押し出されたりした
本人の祖先に加わった、というのがわたしの思い描くシナリオです。大きな住民交代が
なかったから、ちがう時期に渡来した人々がそれぞれもたらした多型が残りました。そ
れには故地では滅んでしまったものも含まれています。
篠田は関東縄文人の11種に及ぶハプログループの頻度を図示し、それらが東南アジ
先住民にはあって朝鮮にはないタイプ(N9b)で占められていて、関東とは「著しい違い
があります」と書いています。(166-172頁) N9bは『科学』2010年4月号で篠田謙
一と安達登が、北海道縄文~続縄文人では65パーセント、オホーツク人では11パー
セント、アイヌでは8パーセントとして図示していたグループです。ここからこう考え
られます:多分旧石器時代に、2または3のルートで来島した集団が、少なくとも縄文
時代は、後からまたは別な経路で来た集団に圧倒されたりあまり薄められたりはしなか
った。しかしその後アイヌ期までにその直系の人口をおおきく減らしたり、より数の多
い他集団と混血したりした、と。それを章のタイトルとして「北海道縄文人は」「消え
た」と表現しました。
土器は縄紋のような時代を示すわかりやすい特徴がないので、土器を時代区分の目安に
すると問題がおきます。わたしはとりあえず、潅がい稲作とともに弥生文化の時代が始
まった、と考えることにします。それは北九州では紀元前600年前後(±200年ほ
並行するようになってからは、続縄文時代と呼ばれ、前代から区別されています。11
章でわたしは続縄文期の始まりを紀元前後と書きましたが、弥生文化は遅くても2,3
百年で北九州から本州北端まで達したようなので、続縄文への移行はもう少し早いと考
えるべきでしょう。
8章でわたしは「縄文的」を、「階層差が比較的小さい。採集、狩漁、栽培、飼育、
加工などの生産活動は、自家消費、仲間との分かち合い、そして協議・祭祀・饗宴など
の集団活動に供するのが主目的。外部との交換に充てられるのは余剰分。最後に、なじ
んだ自然物に対する交感と言えるような深い理解」と書きました。いまはそれに、「リ
トル・トリー」やグイの会話記録を吟味して得られた、「仲間を交歓の相手とみなして
いるので、彼らを生産活動や宗教・政治的労役に強制使役したり、祭壇の犠牲に供した
りして殺戮することはない」、という特徴を付け加えたいと思います。これらは、衰退
期を別にすれば多くの狩猟採集民に共通で、北海道縄文人だけのことではないでしょ
う。
越地方人などに伝わった部分もありそうです。さらに、本州縄文人とも共有した文化の
特徴は、アイヌや東北地方の人々(エミシという蔑称がある)に受け継がれ、北海道で
は江戸末期まで、東北地方では少なくとも平安末期まで、ある程度残ったとわたしは考
えています。それが北上する弥生系中央政権への東北人やアイヌの抵抗を支えたのでは
ないか、と。アイヌや「エミシ」の由来と、これらの人々が国家的編成の進んだ勢力に
圧倒された理由を推理するのが、次回からのテーマです。(続く)