波走る ムダの効用 32

 サイタマンさん、地平線に昇る陽沈む陽をご覧になったことはありますか。わたしは一度見たいと思う
のですが日本では無理かなー。水平線なら日の出はオホーツク海で、日没は日本海で見られるけれ
ど。


 そらさん、埼玉でもお正月の空が晴れていれば、きれいな雲が見られるかも。そちらにいたころのわ
 
たしは、とくに気にしませんでした。気持ちが乾いていたのでしょうね。

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 能取岬の海底はだいぶ先まで浅く、岩でてきているようで、白い波が追っかけっこをするように走る
 
景色がよく見られます。
                       〔ムダの効用 32〕
   北海道縄文人はどこに消えたのか(前)
 ここからしばらくは、ジャレド・ダイヤモンドの4冊の著作(④『銃・病原菌・鉄』上 草思社 蔵
 
訳 原著1997年 ⑤同下 ⑥『文明崩壊』上 草思社 楡井浩一訳 原著2005年 ⑦同下 に言
 
することが多くなります。ダイヤモンドの著書は、考古学などの歴史系諸学や人類学はもちろん、
 
言語学、自然科学にも及ぶ、さまざまな知識を総合して書かれています。その知識の量と広さは、
 
一個の脳に蓄えられたものとしては、実に驚異的です。取り上げられている事実の信頼度について
 
は、たしが他の情報源から得ていた知識と重なる部分で、異議を挟みたい記述はほとんどありま
 
せんでした。それで、これらの本で初めて得た情報も信頼できるだろうと判断しています。

  まず、マオリ族とモリオリ族の戦いのくだりから。1835年の11月と12月に、ニュージー

ンド東方のチャンタム諸島に、銃、棍棒、斧で武装したマオリ族900人が上陸し、その二倍ほどの

モリオリ族を襲撃しました。数日のうちに数百人を殺してその多くを食べ、生残った者は奴隷にしま

したが、奴隷にされた人々も数年の間にほとんど殺されています。モリオリ族は分散した小さなグ

ループを作って狩猟採集でくらしていました。戦いになれておらず、大きな集団を組織的に統率する
 
指導者もいません。技術や武器も劣っています。マオリ族の来島を知って和平交渉を考えていたの

に、申し出る間もなく襲撃されたのです。マオリ族はニージーランド北島の人口周密地に住む農耕

民で、厳しい戦闘の経験があり技術も武器もすぐれています。(④7779頁)

 時代が古いのでこれほど詳細ではありませんが、④⑤にはほかにも、農牧民と狩猟採集民、あ
 
るいは武器、技術、社会組織が優位な集団とそれらがより原始的な集団が、接触したり戦ったりし
 
た実例が豊富に記載されています。たとえ人数では圧倒的に不利であっても、たいてい前者が後
 
者を圧倒しています。その結果住民がそっくり入れ替わり、先住民がいたことさえほとんど忘れ去ら
 
れている地域も少なくないようです。侵入者と現地人が混血し、新しい文化が生まれる場合もあり
 
ます。現地住民が外来勢力の武器、技術、社会組織に触発されて、自己変革に努め、自立を維持
 
または再獲得することもあります。件数は少ないのですが、より原始的な現地住民が結局は生き残
 
るケースも皆無とは言えません。例えば、ノルウェーのヴァイキングが入植したグリーンランド(⑥第
 
六・七・八章)とヴィンランド(バフィン島からラブラドル半島かけてのカナダ東岸 ⑥292,296)
 
そうです。

 日本列島弧の全域で住民が「日本人」になるまでに、弥生文化後期から明治まで、約2.000年
 
の時間がかかっています。その間モリオリ族の消滅に似たケースを含め、異なる文化をもつ集団の
 
接触、戦いと移住や消滅、人や文化の相互浸透や融合などが、各地で数多く繰り返されたにちが
 
いありません。北海道先住民を中心に、その一端を概観してみます。

  かつて日本人の起源が比較的単純に考えられていた時期があります。例えば、東南アジアある

いは中国南部から南西諸島沿いに九州に来た人々が、北上しながら広がって縄文人になった。彼
 
らが原日本人で、その後弥生人が金属器と稲作を携え、朝鮮半島を経由して北九州に渡来し、原
 
日本人と混血して日本人が成立した、というような。1967年に沖縄港川遺跡で発掘された、18.
 
00年前ごろとされる人骨が、縄文人南アジア由来説の根拠とされたこともありました。

 今ではほとんどの専門家がそれほど単純には考えていません。港川人にしても、アジア人よりオ
 
ーストラリアのアボリジニに近く、本州縄文人とは似ていないという説が出ています(『科学』2010
 
年4月号 「港川人骨を再検討する」 海部陽介・藤田祐樹)。新しい定説が確立しているわけでは
 
ありませんが、縄文人の由来は複数の経路があるという点では、ほとんどの研究者が合意するよう
 
です。

 溝口優司は最新の知見をおおむねこんなふうにまとめています(同前 「日本人形成論への誘
 
い」)アフリカで進化したホモ・サピエンスの一部が5~6万年前までに東南アジアに住み着き、そ
 
の一部が東進してオーストラリアなどで原住民の祖先になり、別な一部がアジア大陸をさらに北
 
進、シベリア、北東アジア、日本列島、南西諸島などに拡散した。シベリアに向かった人々は寒冷
 
地適応し北方アジア人的特長を獲得する。その後縄文時代末に朝鮮半島経由で渡来した、中国東
 
北あるいは江南地方の人々の一部が弥生人で、彼らが縄文人と混血して本土日本人になった、
 
と。東南アジアから拡散した後、アボリジニオーストロネシア語族、北東アジア人、アムール川
 
北の北方人などがさまざまな地域的特長を獲得し、その一部が複数の経路で日本列島に到着し
 
た、ということのようです。したがって縄文人の始まりは均質な一つの民族集団というより、地域性を
 
もつさまざまな集団と考えるべきでしょう。

  北海道縄文人の起源については、篠田謙一と安達登が出土人骨のミトコンドリアDNAを分析した
 
 結果を書いています(同前「DNAが語る「日本人への旅」の複眼的視点」)。北海道縄文人は、アムー
 
 ル川下流域(沿海州)先住民と共通な4種類のハプログループ(ゲノム上の多型を組み合わせたハプ
 
 ロタイプによるヒト集団の分類)から成る。現代日本人のハプログループは20種ほどだから、北海道
 
 縄文人の多様性は少ない。また現代沿海州先住民と比べても、DNA配列から計算した遺伝的多様
 
 性は半分ほど。「彼 らは比較的長期間にわたって周辺集団から孤立していた可能性もある。」(370
 
 頁) 北海道で発掘される、旧石器時代末から縄文草創期にかけての細石刃や石刃鏃は、沿海州
 
 からシベリアに広がる北方文化圏に属するとされています(参照:『新北海道の古代』1 北海道新聞
 
 社刊)。わたしが思うに、北海道縄文人は寒冷地対応を遂げて旧石器時代に渡来した北方人の末裔
 
 で、その後続縄文期までは、あまり混血しなかったのではないでしょうか。

  篠田・安達は北海道縄文人の直系子孫がアイヌなのではないと考えています(同前)。では、8.00
 
 0年以上にわたって北海道の大地を縦横にかけめぐっていた縄文人は、どこへ行ったのでしょう。そ
 
 してアイヌ民族はどのように成立したのでしょう。(続く)