うろこ雲 ムダの効用 30

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 ある日窓を開けたら、空にうろこ雲が広がっていました。外に飛び出しカメラを四方に向けてシャッターを切っ

ている間にも、模様がどんどん崩れていきます。ひと時のはかない空の饗宴でした。


                               〔ムダの効用〕

30 あなたが努力すれば社会が悪くなる(承前)

 

 上位層がどんどん豊かになれば、そこから富が滴り落ちて中層へ下層へと及び、経済全体が活性化す


る。これが小さい政府のもとでの競争促進を唱えた人々が信じた、トリクル・ダウン(滴り落ち)説。ア


メリカ・イギリスで始まり、日本に波及して小泉路線になりました。トリクル・ダウン説はどうやら、


鄧小平以後の社会主義?中国でも、改革を支える論拠の一つになったようです。『不平等が健康を損な


う』の著者も、衣食住が欠乏する貧困社会では、富者の「特権的消費」が「経済的には健全なことであ


る」と認めています。成功者が「つまらない飾り物」に浪費すれば、それを作る貧しい人が財政的援助


を受けるようなものだから、と(61頁)。


 前々回触れたように、ある所得水準までは、財と幸福感に比例する傾向が見られます。飢えや凍えに


しむ人にとって、空腹を満たす十分な食べ物、寒暑を凌ぐ衣類と家が手に入ることは、大きな喜びで


す。全体としては絶対的貧困の恐怖が社会を覆っているとき、上位の少数者はごくわずかな出費で貧者

の忠誠を購うことができます。こういう社会ではトリクル・ダウン説も有効でしょう。農牧が始まって

からつい最近まで、身分、階級、地位の格差にもとづく支配=被支配が繰り返されてきたのは、この構

造が機能したからではないかと思います。しかし世界の先進諸国では、前世紀7、80年代までに、絶

対的貧困より、他者との比較で定義される相対的貧困のほうが注目されるようになりました。


 渇ききった喉には安ワインも天の甘露で、空腹という調味料は万能です。しかし渇きと飢えが治まれ


ば、隣に座る着飾った男女のテーブルを盗み見る余裕ができます。彼らの豪華なディナーと比べ、目の


前の安い料理が犬の餌のように見えてきて、さっきまでの満足感が惨めさに変わることもありそうで


す。『不平等が健康を損なう』にはこんな調査が載っています(46頁)。ハーバード大学のある学部の


院生と教員を対象に、つぎのABどちらの社会に住みたいかを答えてもらいました。A.自分の年収が


5万ドルで、他の人は2万5000ドル B.自分の年収が10万ドルで、他の人は25万ドル。56


%の人がAを選択したそうです。院生や大学教員には絶対的貧困に苦しむ人は多分いないでしょう。彼


らの多くが、自分の所得が倍増することより、絶対額は低くとも他人に比べれば豊かであることのほう


を、好ましいと感じています。


 さらに、GDPに占める広告費の割合とその国の所得格差の関連を調べると、広告の多い国は格差


も大きいとわかったそうです(64頁)。アメリカは広告費も格差も特に大きい国です。金持ちの消費


にリードされて、「すべての人がもっと大きな車、もっと広々とした家、もっと大きな画面のテレビ


を所有しないと気が済まない」(62頁)社会になっています。この国に一時の好景気をもたらした住


宅バブルは、当面の営業成績を上げるため、住宅会社と金融機関が組んで、本来ならこの欲望を実現


できるはずのない層の幻想をあおりたてた結果です。住宅価格は上昇し続けるから、家の資産価値が


ローンを担保しても余るとして、給与所得がわずかで他に資産もない人々にまで、住宅ローンや消費


ローンをどんどん貸し付けたのです。その住宅バブルがはじけて金融危機が世界に波及しました。相


対的貧困の世界ではトリクル・ダウン説はやがて破綻します。


 怠けて他人の重荷になるのではなく、一生懸命に働くのがまともな人です。ところで働く意欲は何に


支えられているのでしょう。収入より地位よりまず達成感と言う人もいるかもしれません。しかしそれ


もまあまあのくらしができてのこと。困窮しているのに、世の中にとってだいじなことだからとカネに


ならない仕事に夢中になれば、たいてい家族や周りの人に迷惑をかけます。それでも清貧を貫くのはご


く少数。ほとんどの人は家族や自分の生活向上が働く動機です。アメリカほどではなくても、日本もG


DPに占める広告費の割合が大きい国です。「生活向上」の指標は、「人なみ」に消費できることであ


り、「人なみ」の中身は溢れかえる広告に、したがって上位層の消費スタイルに、影響されています。


 中・下層なのに「ウサギ小屋」から脱出して戸建やゆとりあるマンションを持ちたいと思えば、中心


街の職場から遠い郊外で物件を探すことになります。上位層とちがって彼らは数が多いので、郊外の地


価は高騰しており、いつまでも高額なローン返済が続きます。長時間の電車や道路のラッシュに耐えた


り、神経をすり減らす密度の濃い職務を引き受けたり、長時間働いたり。仕事・通勤に時間とエネルギ


ーを奪われ、夫婦仲や子どもとの関係が貧しくなります。地域の共同活動に参加する余裕もありませ


ん。せめてもの慰めは、隣人や同期に負けない収入や地位、そしてそれを誇示できる消費です。過剰な


競争心は人付き合いをぎすぎすさせます。夫が育児・家事のすべてを押し付け、やさしくもしてくれな


い。それでも彼が稼ごうと必死なのが分るから、責めるわけにもいかない。やり場のない寂しさから子


どもに代理願望を託したり、不倫にあこがれたり、買い物依存症になったりする女性もいるでしょう。


それらすべての行き着く先が、幸福感と一番関係が深かった人間関係の衰退、心身症や自殺、そして犯


罪の増加です。


 ローン支払を続けながら、はてのない「人なみ」の消費水準を追い求めれば、社会の安定と安全のた


めに支払う税や公的保険料など、社会関係資本(信頼関係や社会的ネットワーク)の経費分担が苦痛にな


ります。この気分に応えて、景気が下降するたびに「減税による消費刺激」が唱えられます。財政難に


なれば、公共の福祉や治安を維持する中央・地方政府の能力が低下し、社会の安定が損なわれます。犯


罪防止・災害救助・社会保障などの政府機能が衰えれば、個人の出費でリスクに備え、セキュリティー


を確保しなければなりません。要塞町が増えているアメリカほどではありませんが、いま日本でも新し


いマンションは外来者を締め出すシステムがあたりまえです。各種保険会社や警備保障会社が、ここぞ


とばかり広告合戦を繰り広げています。


 自前でリスクに備える余裕のない人々は、ちょっとしたことでも不安になり、また小さなつまずきで


実際に転落もします。絶対的貧困に劣らず相対的貧困も社会不安と犯罪の温床です。警戒心が住民を分


断し対立させます。公共機能に不信が高まり、ますます公共負担が嫌われます。それでもトリクル・ダ


ウンを機能させようとすれば、さらなる社会関係資本の縮小を代償に、さらに成功者のくらしを誇示し


個人消費をあおり、敗残者の自己責任を唱えるしかありません。とめどなく社会崩壊に向かう悪循環


です。


 格差と競争の社会システムについては、後の各章で何度かたち戻ります。先取りして少しだけ言う


と、これまでの文明史には、自然・経済の環境が悪化した上で、上位層の支配と権威への固執が最後の


引き金を引になって、ついに崩壊した文明がいくつもあります。グローバル化が進んだ現在、ひとたび


超大国アメリカや中国、あるいは日本など比較的大きな国で文明崩壊が始まれば、すぐに全世界に波


及するでしょう。(続く)