4月の雪 ムダの効用 17

  orion*.:‘さん、とりあえず目のトラブルは治まっているみたいでよかった。ところで、いろんなものを飼ってい
 
らっしゃるようですね。たくさんのフィギュアもそうですか。
 
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 野鳥シリーズを一回休んで、きのうの雪景色です。これを最後に新雪は12月までお預けになるかもしれない
 
ので。久しぶりの雪かき、湿っていて重かったー。
 
 
17 「おばちゃんにありがとうは?」の社会()
 
わたしたちの社会では、親が子どもに最初に教えなければならない言葉の一つが、物をもらったときの「ありがとう」です。隣の奥さんが幼いわたしの息子に飴を差し出し、彼が黙って受け取って口に入れたら、わたしは「おばちゃんにありがとうは?」と、促さなくてはなりません。30年ほど前、息子が生まれる前後に読んだA.S.ニイル(1923年スコットランド「世界で一番自由な学校」を創設した教育者)の影響で、わたしは「おばちゃんにありがとうは?」が、子どもの心にウソを植えつける最初の教育であると、思うようになっていました。
欲しかったお菓子をもらって笑顔が出る。欲しくない物を差し出されて「いらない」と言う。それが幼い子の気持ちの素直な表現です。贈った大人は、子どもの笑顔で報われているのであり、拒否されるのは子どもの気持ちを汲み取れない自分の責任です。どちらの場合にも、「ありがとう」を期待すべき正当な理由はありません。そう思いながらもわたしは、「おばちゃんにありがとうは?」と、息子に促さなくてはなりませんでした。そうしなければ親子ともども社会からはじき出されそうな、強い圧力を感じたからです。
わたしもいまの歳になればわかります。「ありがとう」を躾けられ、幼い自分の素直な気持ちに逆らって努力した結果、それをあたりまえだと思うように育った大人が、お礼も言わずにお菓子を口に運んだり、平気で「いらない」と返したりする子どもを見たら、気持ちが傷つくだろう、と。わたしも自分のことなら、そういうことで相手を不快にさせないように気を使うことができます。他人の侵害を許すべきではない心の領域を防御しながらも、相手の気持ちを思いやる技術が少しは身につきましたから。
でも幼い子どもはまだ、これが自分だという核ができあがっていません。その段階で、もらったお菓子をすぐに食べたいのに、我慢してまずお礼を言わされる。あるいは嬉しくもないのに感謝するフリをさせられる。子どもは、自分の内なる感情を抑制、否定して、まわりの大人の満足を自分の喜びの代わりにする練習をさせられているのです。例えば、親が虫歯の心配をして、子どもに甘いお菓子を食べさせないようにしている。あるいは、食事前の間食は避けさせたいと思っている。その親が、お菓子を差し出す隣のおばちゃんに「ありがとう」を言えと促す。
この場合、お菓子がほしいという気持ち、我慢しろと言う親に従う努力、ありがたくもないのに口にさせられるお礼の言葉、それぞれが互いに対立しています。子どもは異なる複数の方向に心が引き裂かれます。自分の本当の気持ちを大事にすることを覚える前に、確かな自我が育つ前に、自分の感情を軽んじ、大人を満足させるように求められます。
そして同時に、自分の自然な気持ちのなかに、他人に知られてはならない部分を抱えることになります。母親が自分にウソを強いていることに気づいてはならないし、差し出された飴を喜んでいないのを隠さなくてはなりません。子どもはいわば「原罪」を植えつけられます。ここを突破口に、オマエはいい子じゃない、すなおでない、謙虚さがたりない、教養がない、などの自己否定が心に侵入してきます。成長するにつれて、特に性にまつわることがらで、心を蝕む内面的抑圧がさらに大きく育ちます。その周りにプライバシーという名の社会的フィクションと、それを覗き込みたいという歪んだ欲望が発達します。リトル・トリーや彼の祖父母が毅然としていられたのは、そういう自我の破れがなかったからかもしれません。(このテーマ続く)