先住民のくらしは 1
常呂遺跡の復元住居です。後の二枚は1800年ほど前の続縄文期のもの。2300年前ごろ、水稲耕
作を伴う弥生文化が本州最北部に届いた時期に、水稲を受容せずに縄文のくらしを受け継ぐ続縄文文化
が、本州だけでなく大陸北方とも交流しながら、北海道で独自に発達しました。九州や本州が古墳時代・
大和時代・飛鳥時代と移り変わるのと並行して、7,8世紀ごろまで続きます。写真の元になった住居跡
は長辺が7.7メートルの楕円形、居住者は10人と推定されています。
前の二枚は約千年前の擦文文化期のもの。一辺6メートルの正方形で、やはり10人ほどがくらしたと
されています。擦文文化は、北海道では少し異質性のある北方海洋性のオホーツク文化とも重なる時期が
あります。本州文化の影響が強くなるなかで、続縄文のくらし方も残して、8世紀から12,3世紀まで
存続します。その後はアイヌ文化に引き継がれていきます。
外から見た印象は4枚ともあまりちがいません。ともに高度成長前の農村にはだいぶ残っていた、屋敷
林に囲まれたかやぶき屋根の農家を連想させます。もちろん、舌状に伸びた入り口部分や地上に壁面のな
い構造など、ちがいはたくさんありますけれど。山野草、堅果類(栗・胡桃・団栗類)、雑穀、魚介、鳥
獣などの食習慣でも、数十年前までの山村・漁村との連続性が感じられます。政治権力の交代をたどる
「歴史」とは別な歴史に興味をそそられます。
作を伴う弥生文化が本州最北部に届いた時期に、水稲を受容せずに縄文のくらしを受け継ぐ続縄文文化
が、本州だけでなく大陸北方とも交流しながら、北海道で独自に発達しました。九州や本州が古墳時代・
大和時代・飛鳥時代と移り変わるのと並行して、7,8世紀ごろまで続きます。写真の元になった住居跡
は長辺が7.7メートルの楕円形、居住者は10人と推定されています。
前の二枚は約千年前の擦文文化期のもの。一辺6メートルの正方形で、やはり10人ほどがくらしたと
されています。擦文文化は、北海道では少し異質性のある北方海洋性のオホーツク文化とも重なる時期が
あります。本州文化の影響が強くなるなかで、続縄文のくらし方も残して、8世紀から12,3世紀まで
存続します。その後はアイヌ文化に引き継がれていきます。
外から見た印象は4枚ともあまりちがいません。ともに高度成長前の農村にはだいぶ残っていた、屋敷
林に囲まれたかやぶき屋根の農家を連想させます。もちろん、舌状に伸びた入り口部分や地上に壁面のな
い構造など、ちがいはたくさんありますけれど。山野草、堅果類(栗・胡桃・団栗類)、雑穀、魚介、鳥
獣などの食習慣でも、数十年前までの山村・漁村との連続性が感じられます。政治権力の交代をたどる
「歴史」とは別な歴史に興味をそそられます。