能取湖西岸
なります。能取岬のある東岸はたびたびアップしています。西岸の風景はまれで、特に初冬期の紹介は初
めてです。明るい陽が照っていると印象も一変しますが、このときはまだ薄日程度でした。白鳥はたいて
いの湖でどこかには浮かんでいます。湖面が凍結すると温水が湧く屈斜路湖などに集中するのでしょう。
ペリーの饗応
いま読んでいる『日本食物史』(吉川弘文館)に、江戸幕府がペリー一行を饗応した献立が紹介されてい
ます。魚介類と野菜中心の日本食です。一流の料理屋で2千両の金をかけて作られたといいますから、幕
府としては精一杯ぜいを尽くしたもてなしだったのでしょう。でも、ペリーは料理が貧弱だと不満だった
とか。乳製品や肉類の濃厚な味に慣れたアメリカ人には、淡白な味付けで素材の微妙な持ち味を楽しむ日
本食が、粗末な食べ物に感じられたのでしょう。天ぷらや鮨など、いまはアメリカで日本食が大はやりだ
と言われます。ペリーはそんな日が来るとは夢にも思わなかったでしょう。
献立の中に防風の名があります。ハマボウフウのことでしょう。おそらく縄文時代から食用にされてい
た野草です。わたしは一昨年春、ひと気のないオホーツク海の浜辺で、一人この草を摘む老人の姿を見た
ことがあります。フキノトウも饗応の献立に入っていました。毎年わたしも楽しみにしています。山菜や
食用の野草は日本ではずっと、貧しい庶民の貴重な副食であり続けるとともに、時代時代の一流の料理人
によって貴人をも喜ばす食材としても使われ続けたのだと、わたしは思いました。いまでは田舎でも自分
で採りに行く人は多くないみたいです。でもまだ、高級料理屋や旅館で料理して出せばよろこばれます。
ともあれ、幕府は日本料理が欧米人に評判がよくないことに気づいたようで、これ以後しだいに彼らの
饗応には西洋料理が増えていきます。徳川慶喜が大阪城で英、仏、蘭公使に饗応したのは、フランス料理
だったそうです。そのときにはもう、日本古来の野草・山菜に出番はなかったのでしょうか。