能取湖西岸
オホーツクの森を抜けて卯原内の国道238号に出ると、サロマ湖へはまず能取湖西岸をたどることに
なります。能取岬のある東岸はたびたびアップしています。西岸の風景はまれで、特に初冬期の紹介は初
めてです。明るい陽が照っていると印象も一変しますが、このときはまだ薄日程度でした。白鳥はたいて
いの湖でどこかには浮かんでいます。湖面が凍結すると温水が湧く屈斜路湖などに集中するのでしょう。
ペリーの饗応
いま読んでいる『日本食物史』(吉川弘文館)に、江戸幕府がペリー一行を饗応した献立が紹介されてい
ます。魚介類と野菜中心の日本食です。一流の料理屋で2千両の金をかけて作られたといいますから、幕
府としては精一杯ぜいを尽くしたもてなしだったのでしょう。でも、ペリーは料理が貧弱だと不満だった
とか。乳製品や肉類の濃厚な味に慣れたアメリカ人には、淡白な味付けで素材の微妙な持ち味を楽しむ日
本食が、粗末な食べ物に感じられたのでしょう。天ぷらや鮨など、いまはアメリカで日本食が大はやりだ
と言われます。ペリーはそんな日が来るとは夢にも思わなかったでしょう。
献立の中に防風の名があります。ハマボウフウのことでしょう。おそらく縄文時代から食用にされてい
た野草です。わたしは一昨年春、ひと気のないオホーツク海の浜辺で、一人この草を摘む老人の姿を見た
ことがあります。フキノトウも饗応の献立に入っていました。毎年わたしも楽しみにしています。山菜や
食用の野草は日本ではずっと、貧しい庶民の貴重な副食であり続けるとともに、時代時代の一流の料理人
によって貴人をも喜ばす食材としても使われ続けたのだと、わたしは思いました。いまでは田舎でも自分
で採りに行く人は多くないみたいです。でもまだ、高級料理屋や旅館で料理して出せばよろこばれます。
ともあれ、幕府は日本料理が欧米人に評判がよくないことに気づいたようで、これ以後しだいに彼らの
饗応には西洋料理が増えていきます。徳川慶喜が大阪城で英、仏、蘭公使に饗応したのは、フランス料理
だったそうです。そのときにはもう、日本古来の野草・山菜に出番はなかったのでしょうか。
なります。能取岬のある東岸はたびたびアップしています。西岸の風景はまれで、特に初冬期の紹介は初
めてです。明るい陽が照っていると印象も一変しますが、このときはまだ薄日程度でした。白鳥はたいて
いの湖でどこかには浮かんでいます。湖面が凍結すると温水が湧く屈斜路湖などに集中するのでしょう。
ペリーの饗応
いま読んでいる『日本食物史』(吉川弘文館)に、江戸幕府がペリー一行を饗応した献立が紹介されてい
ます。魚介類と野菜中心の日本食です。一流の料理屋で2千両の金をかけて作られたといいますから、幕
府としては精一杯ぜいを尽くしたもてなしだったのでしょう。でも、ペリーは料理が貧弱だと不満だった
とか。乳製品や肉類の濃厚な味に慣れたアメリカ人には、淡白な味付けで素材の微妙な持ち味を楽しむ日
本食が、粗末な食べ物に感じられたのでしょう。天ぷらや鮨など、いまはアメリカで日本食が大はやりだ
と言われます。ペリーはそんな日が来るとは夢にも思わなかったでしょう。
献立の中に防風の名があります。ハマボウフウのことでしょう。おそらく縄文時代から食用にされてい
た野草です。わたしは一昨年春、ひと気のないオホーツク海の浜辺で、一人この草を摘む老人の姿を見た
ことがあります。フキノトウも饗応の献立に入っていました。毎年わたしも楽しみにしています。山菜や
食用の野草は日本ではずっと、貧しい庶民の貴重な副食であり続けるとともに、時代時代の一流の料理人
によって貴人をも喜ばす食材としても使われ続けたのだと、わたしは思いました。いまでは田舎でも自分
で採りに行く人は多くないみたいです。でもまだ、高級料理屋や旅館で料理して出せばよろこばれます。
ともあれ、幕府は日本料理が欧米人に評判がよくないことに気づいたようで、これ以後しだいに彼らの
饗応には西洋料理が増えていきます。徳川慶喜が大阪城で英、仏、蘭公使に饗応したのは、フランス料理
だったそうです。そのときにはもう、日本古来の野草・山菜に出番はなかったのでしょうか。