林の縁(ふち)で 「死」を考える
美富自然公園の林が耕地と接する境で見つけた花たちの五月初旬の姿です。散策する人の眼を楽しませ
ようと、農作業の合間に、余った苗などを埋めたのでしょうか。街なかの丹精したお庭とはちがう、気軽
な遊び心が覗えるような。
『考える日々』(池田晶子 毎日新聞社)から引用します。
228・229頁:「・・・・・人が、生命、生存することそれ自体に執着する姿勢には、いまだもって共
感を覚えない。
巷間の「がん論争」に決定的に欠落しているのは、このように真正面から、生存それ自体の意味と価値
とを論理的に問う視点ではないのか。・・・・・
(中略)
なぜ生は善であり、死は悪なのか。」
237頁:「人はここを理解しないのだが、死体は存在するが、死は存在しないのである。死などとい
うものは、言葉としてしか存在したことはない。言葉ではない死というものを、見た人も、知っている人
も、いないのである。それが何であるのかわからないところのものを、いかにして定義しようというの
か。
普通には人は、死が存在すると信じて生きている。そして死を恐れる、「無になる」と。しかし、無が
存在したらそれは無ではないのだから、死は存在しない。したがって恐れる理由はない。」
体験としての死は非在である、それは理解できます。しかし限定なしの「死」が存在しないという断定
はわたしの腑に落ちません。死によって他者が不在となる、それは経験的にも否定できない事実です。共
同社会が、来世や体から分離される霊の観念を介さずに、死をシンプルに諒解しようとするとき、「生は
善で死は悪」は必然的に現れる一つのフィクションではないでしょうか。共同社会を成り立たせるフィク
ションであることを忘れ、客観的な真理か倫理であるように思い込むと、さまざまな滑稽や硬直した危険
思想につながりますけれど。
血縁、地縁、職縁が個人の心を支える機能が衰退して、裸の個人が世界と向き合う構造が浮上してきて
います。わたしも自分なりに、宗教とちがう方法で死をどう受け止めるか、漠然とですが考えている時間
が増えてきました。池田さんの文章はその材料としてありがたいと思っています。ですが彼女は、「考え
る自分」のなかに世界を取り込もうとしていて、共同社会が人の生とかかわる方向からの思考を実質的に
は排除しています。
わたしは、だれとも知れない他者のために畑の縁に何気なく花を植える人の気持ちを想像しながら、個
人としての、そして社会にとっての死を、これからもよたよたと考え続けることになりそうです。
ようと、農作業の合間に、余った苗などを埋めたのでしょうか。街なかの丹精したお庭とはちがう、気軽
な遊び心が覗えるような。
『考える日々』(池田晶子 毎日新聞社)から引用します。
228・229頁:「・・・・・人が、生命、生存することそれ自体に執着する姿勢には、いまだもって共
感を覚えない。
巷間の「がん論争」に決定的に欠落しているのは、このように真正面から、生存それ自体の意味と価値
とを論理的に問う視点ではないのか。・・・・・
(中略)
なぜ生は善であり、死は悪なのか。」
237頁:「人はここを理解しないのだが、死体は存在するが、死は存在しないのである。死などとい
うものは、言葉としてしか存在したことはない。言葉ではない死というものを、見た人も、知っている人
も、いないのである。それが何であるのかわからないところのものを、いかにして定義しようというの
か。
普通には人は、死が存在すると信じて生きている。そして死を恐れる、「無になる」と。しかし、無が
存在したらそれは無ではないのだから、死は存在しない。したがって恐れる理由はない。」
体験としての死は非在である、それは理解できます。しかし限定なしの「死」が存在しないという断定
はわたしの腑に落ちません。死によって他者が不在となる、それは経験的にも否定できない事実です。共
同社会が、来世や体から分離される霊の観念を介さずに、死をシンプルに諒解しようとするとき、「生は
善で死は悪」は必然的に現れる一つのフィクションではないでしょうか。共同社会を成り立たせるフィク
ションであることを忘れ、客観的な真理か倫理であるように思い込むと、さまざまな滑稽や硬直した危険
思想につながりますけれど。
血縁、地縁、職縁が個人の心を支える機能が衰退して、裸の個人が世界と向き合う構造が浮上してきて
います。わたしも自分なりに、宗教とちがう方法で死をどう受け止めるか、漠然とですが考えている時間
が増えてきました。池田さんの文章はその材料としてありがたいと思っています。ですが彼女は、「考え
る自分」のなかに世界を取り込もうとしていて、共同社会が人の生とかかわる方向からの思考を実質的に
は排除しています。
わたしは、だれとも知れない他者のために畑の縁に何気なく花を植える人の気持ちを想像しながら、個
人としての、そして社会にとっての死を、これからもよたよたと考え続けることになりそうです。