防風林白い霧氷を身にまとう
が白く見えます。
まだ流氷は樺太にぶら下がったままで、北海道の東部沿岸から肉眼で見えるところまで来ていません。
きのう金土市で網走産の生蛸足を買って、マリネーにしました。200円ほどで一回では食べきれない量
でした。去年とちがっていまも出漁できて、網走市場に生魚や生蛸が出荷されているのでしょう。
むかし理科の教科書に載っている舌の味覚分布図を覚えさせられた記憶があります。これがまるっきり
ウソで、舌の全体に分布する味蕾一つ一つに甘塩苦酸旨みのすべての感覚細胞があるとわかったのは、い
つごろのことでしょう。他にも学校の理科で教えられたことで、今ではウソだとわかっていることがいろ
いろあります。まして社会・人文系の科目だと、教科書の記述や教師の説明の中に、ウソ、まちがった印
象に導くもの、ものの役に立たないものがどんなに多かったか、大人になってから気づきました。
学問は日進月歩ですから、定説として確立された説明だけを教科書で取り上げたつもりでも、後になっ
てまちがっていたとわかることがあります。それは避けられません。わたしが不満なのは、教科書も教師
も自信満々で、これを覚えろとだけ迫られ、疑問を封じられていたことです。数学の定理や物理の基本法
則のように、将来にわたって否定される可能性が小さいものと、学問の進歩や学習者の成長によって相対
化されるものとを区別することがだいじだとは、誰からも教わりませんでした。
今では知識そのものは自分の頭のなかに蓄えておかなくても、パソコンなどのメディアに蓄えられたも
のから必要なものを容易に引き出すことができます。ただ、検索するのに必要なキーワードを思いつくに
は、知識の分野地図が援けになります。広い一般教養は身に付いていたほうが有利です。仕事や自分の興
味のための専門知識は、必要になってから必要なものを選択して獲得すればいいでしょう。
キーワード検索にしても文脈検索にしても、分類や外形による検索です。困ったことに、情報の質や信
頼性を頼りに検索することができないのです。ですから、これからの初期教育の学校が提供すべきなの
は、広く知識を俯瞰する地図と情報の質の吟味を練習する機会の提供だと思います。教科書の絶対化や生
徒の反論を嫌がる教師は、いまや時代に対する障害物です。
学校で絶対的な真理であるかのように暗記を強いられた知識が、後になってウソや無用なものだとわか
る経験が、人々を客観的な知への不信に追いやり、オカルト的なものへの依存と個人感情への頑固な執着
を流行させる要因になっていないでしょうか。