小清水海岸と濤沸湖

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 多くの観光客は小清水原生花園をちょっと歩き、国道沿いの濤沸湖を眺めて帰ります。でも、国道から

南に別れる道路に入らないと、湖水越しに斜里岳を望む雄大な景色は見えません。海岸も花よりむしろ、

知床半島を見渡す海洋風景がわたしは好きです。


〔新しい文明の姿を考える 〕

(12) 情報化の意味

 狩漁採集の数百万年、農耕牧畜の一万年、産業化の三百年、そして今は情報化が始まってから三十年。

人のくらしを支える経済活動の中心分野が三度変わり、そのたびに文明が変質しています。産業化社会で

は人が採って加工したモノの売買が経済の中核です。労働生産性が飛躍的に向上し、身体の存続と活動に

必須なモノ供給の安定度が高くなりました。それ以前の段階に比べ、わたしたちは身体の快をより容易に

確保できます。では次の情報化は何をもたらすのでしょう。これから文明はどのような形になるのか、わ

たしたちは戸惑いの中にいます。

 情報とは何らかのモノやエネルギーを媒体にして脳にもたらされるパターンであると、わたしは考えて

います。情報化社会では、わたしたちの脳に快を感じさせるパターン(情報コンテンツ)と、より効果的に

情報を媒介するツールが、もっとも収益性のある商品になります。特定のモノとして現れる素粒子の秩序

ある配列も情報です。しかし身体はこの情報にではなく、空腹感、寒熱ストレス、痛みなどの苦痛を取り

除いたり緩和したりしてくれるモノ自体の特性に反応します。脳は身体の快や不快も感受しますが、身体

の必需品の充足に追われなくなると、更なる快をもたらすモノとモノの組み合わせを求めるようになりま

す。身体の不快を取り除くモノ自体の機能だけでは満足せず、神経回路を一層活性化させる刺激のあるパ

ターンに欲情するのです。

 身体と脳はつながっていて、モノと情報もつながっています。しかし人にとっては、モノは身体と、情

報は脳との関係が強くなっています。情報と脳の関係はモノと身体の関係よりずっと複雑です。ヒトとい

う種に属する個別の身体は、基本的には共通な遺伝子が発現して出来上がるので、差異はそれほど大きく

なりません。ところが脳は遺伝子と環境のちがいに身体より敏感なため、神経回路の個人差も変化速度も

大きくなります。脳の需要に応える情報化社会のビジネスは、主として身体の需要に応える産業社会のビ

ジネスより、多様性に対応し、業種業態をすばやく転換する能力を多く必要とします。

 赤色革命前のロシアや中国は欧米に比べ産業化の遅れた地域でした。政治組織のなかに機能的な官僚制

は未熟で、国家システムは人格的支配-被支配の身分秩序への依存が濃厚でした。育ち始めていたビジネ

ス・リーダーたちも、そういう政治指導者と癒着しがちです。そこにマルクス主義から資本家階級への憎

悪を学んだリーダーに率いられた革命が起きました。旧政治指導者と一緒に経営テクノクラートも排除さ

れます。観念的なイデオロギーを除けば、国家や企業の新しい組織原理は存在していません。革命後の権

力闘争を生き残ったリーダーを頂点にする、人格的支配秩序の復活は避けられなかったでしょう。出生に

よる身分制度ではありませんが、イデオロギー身分制度です。

 タテマエとしてのイデオロギーへの忠誠(実態はイデオロギーを裁定する上位者への人格的服従)を軸

に、人格的階層支配の網が社会の末端まで張り巡らされます。上に行くほど支配力が強くなる中央統制国

家になりますから、軍備や宇宙競争などの一点に資源を集中して一時期国威を誇示することはできまし

た。しかし、近代的経営管理が妨げられて全体的な労働生産性はあまり向上しません。身体に必須な物質

の供給は滞ります。末端の民衆に貧困がのしかかります。近代的な経営管理が普及して産業が高度化した

国々から民衆生活の情報が国民に届くようになって、赤色帝国主義の動揺・破綻が表面化しました。

 1980年代までに、近代官僚制にもとづく経営管理の優位がはっきりしました。しかしちょうどその

頃から情報化が加速しはじめています。そこに産業化を急ぐ人口の大きい途上国の台頭が重なって、いま

や先進産業化社会の動揺も大きくなっています。社会主義国家主義イデオロギーへの回帰は論外です

が、まだ情報化の文明史的意味ははっきりしていません。同書は経営管理イノベーションの提唱ですが、

わたしはそこに新しい文明へのヒントがあると思っています。(続く)