桜あでやか

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 今ごろ桜なんて、本州や道南の人には時季遅れで興ざめでしょうか。でもオホーツク地方ではいま、遅

咲きの桜が盛りです。さすがに低地では葉の目立つエゾヤマザクラが増えましたが、まだ散り敷く花びら

を踏み歩くところまではいきません。なにしろ今朝の最低気温は-2.5度(NHK北見局データ放送による

美幌の観測)。5月1日には30度前後の高温が記録され、ここへ来てこの調子です。サンルームで育つ

トマト苗をいつ庭に下ろすか迷ってしまいます。

 人は数十年の経験をもとに考えますから、5月20日が雪の降り納めだった年もあるよ、などと言うこ

ともできます。でも、植物の1年ごとに命を継ぐ種は、この狂乱気候にすばやく適応しなければなりませ

ん。少しずつ分布や形質が変わっていくのかな。10年、20年後にはこの地方の景観も今とちがってい

るかも。


 いまから遠い日の話ですが、まだ元気だった妻が、時間とは何かをしきりに知りたがっていました。わ

たしは相対論や量子力学で時間も変容するとされていることは気づいていました。でも実感としては、物

理事象が移り変わる背景をなす万古不易のものという、古典物理学的観念にしっかりつかまえられていま

したから、妻と深い話はできませんでした。最近になって、どこかで読んだある時間論がたびたび頭に浮

かびます。誰の説で何で読んだかは忘れましたが、だいたいこんな内容だったと思います。

 一般に、過去から未来に向かって時は流れ、現在は一瞬現前したちまち新しい現在にとって変わられ

る、と考えられている。だがほんとうは、この宇宙のすべての情報が消滅するまで、どの現実も恒(つね)

に実在している。流れるのは現実ではなく、わたしたちの意識である。わたしたちの意識がそれぞれの現

実を未来方向に体験しながら通り過ぎるだけだと、そんなような。

 わたしは列車に乗って移り変わる車窓の風景を眺めている状態をイメージしました。外の現実はそのま

ま実在しているのだけれど、わたしたちが移動しているため、事象が変化しているように見えます。この

考えが脳裏に棲みついたのは、わたしのセンチメントを慰めるところがあったからでしょう。過ぎ去った

心に残る出来事は、わたしたちの意識が後戻りしてもう一度リアルに体験することはできないが、けして

消え去ったわけではないという点が。わたしは霊魂や来世を語る宗教に信を置くことができません。で

も、科学的な仮説としてこのような時間論を示されると、心を惹かれてしまいます。過去の幸せな瞬間

を、いまはもう実在しない幻とは、考えたくないのでしょうね。