これから親になる若い人へ

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 『家族のゆくえ』という本を読みました(吉本隆明 光文社)。これから親になる人にぜひ読んでもらいたい、そう思いました。その内容をいくつか、わたしなりの解釈で、要約してみます。
 
 胎児期後半から乳児期にかけての一年から一年半の母子関係は、子どもの生涯の情緒の核の部分を決める。この間の母親の子どもに対する無意識の感情が親和的であれば、子どもの心の基底部分が安定し、自分で制御できない感情の暴発など起きない。乳幼児期の母子の絆がしっかりしていれば、「深刻な問題は全生涯かけて残らない。」記憶にならない時期のことだから、本人には何の自覚もないのだが。
 乳幼児期から少年少女期への移行期は、軒遊びの時期で、それとなく見守る親の視線のなかでおずおずと家と外の世界を往復する。見守ることと外に出る気持ちを邪魔しないことのバランスは微妙だ。
 小・中学生の少年少女期は、遊ぶことが生活のすべてである生涯唯一の時期だ。「生活がすべて遊びだ」という理想が実現できないと、「おどおどした成人ができあがる。」本を読むのも勉強も遊び。この時期は親も学校の先生も、本気になって、体を使って子どもといっしょに遊ぶのがだいじ。
 胎・乳児期に次いで決定的な時期は、少年少女期から前思春期かけてだ。特に前思春期。この二つの時期に「正面から子どもに愛情を注ぐ」ことができさえすれば、あとは手抜きをしても根本的に子どもの人生が狂うようなことはない。

 成人期や老年期についてもいろいろ考えさせられる文章はありますが、親になる若い人に特に読んでもらいたいのは、ここまでの部分です。いくつか注釈します。
 母子関係を強調していますが、すべて母親の責任だというのではありません。良好な母子関係を保障するのは夫や家族や社会の責任です。ただ胎・乳児期には、それ以外の人の愛情や善意は、母親(またはその代理)を経由して子どもに届くしかないということです。
 わたしが自分の子どもにそのような育ちを保障したなどという自信はありません。特に本気で子どもと遊ぶという点では、わたしは完全に失格でした。
 親が自分の失敗に自覚的であれば、子どもが社会から非難されるようなことをしでかしたとき、社会といっしょになって子どもを責めるなどとてもできません。そのように育った子どもにわびて、何とかして償いたくなるだけです。
 子どもは記憶に残る前の時期のことで親を責めることはできません。そのためうまくいかないことを自分の責任として背負い込みがちです。しかし胎・乳児期に刻印された情緒の核は、子ども自身が変えようとしてもけして変えられません。変えられないものを自分の責任だと思い込むと悪循環に陥ります。思春期以降の精神的トラブルはたいていここから生じます。
 自分にも他人にも迷惑な精神的な性向は、胎・乳児期に原因があるものなら、ないものにすることはできません。それを変えようとする方向ではなく、それを抱え込んだままで疼きが少なくてすむ生き方を切り開く方向だけが有効なのだと思います。心理的な傷を抱えていたからすぐれた業績を上げられたという人は少なくないようです。コンプレックスを隠すために勉強に熱中するようなものです。
 社会は、本人の心の底が痛むかどうかより、社会に役に立ってくれるかどうかに関心を寄せます。心理的傷が努力を生むのなら、それも悪くないと思うかもしれません。社会はそうでも親だけは、子どもの世間的な成功より、嵐が来ても倒れずに自分の満足できる生活を守れる、子どものしなやかで強い心のほうが安心です。吉本さんの家族論は、親とは、家族とは、本来はそういうものだという確信に基づいているのでしょう。いまは自分が自分の子どもに対して「世間」になってしまった親も多いようですが。
 
 今日の写真は昨日見た網走湖水芭蕉です。