[家族の情が格差解消を妨げる? 1]
現代では「慈善」はあまり使われない言葉になっています。施す側には貧しい弱者に恵むという優越感
が、施される側には力のある他人の恣意に自分の人生を左右されるという屈辱感が付きまといやすいた
め、対等や平等の意識がいきわたった時代にふさわしくないからだと思います。「社会保障」なら抵抗は
少なくなります。その理念は「みんなは一人のために、一人はみんなのために」という言葉になるでしょ
うか。こちらは「お互いさま」のニュアンスで、社会的地位の格差が隠されます。この理念は世界的に理
想主義的な人々に好まれる傾向があります。
わたしは自分のなかに理想主義に傾きがちな気持ちがあると気づいています。しかし例えば、自分の子
が合格した大学に数十万円の学費を払い込もうとしているとき、栄養不足で死にかけているアフリカの幼
い子ども数十人をその金で救ってくれと乞われたとしても、わたしは要請に応えないでしょう。社会保障
充実のために、必需消費以外の消費税を4から6倍に上げ、一定額を控除した後の相続税を100%にす
る政策を掲げる政党ができたとして、少なくともいまの日本では、彼らはけして多数派になれません。
「みんなは一人のために、一人はみんなのために」という美しい言葉は、家族がだいじというリアリズム
に照らされると、にわかに偽善の色合いを帯びてしまいます。現に存在する格差は、「家族がだいじ」の
感情に護られています。ワーキング・プアが格差解消を望んでも、既得権をもつ層の「優位を失いたくな
い」というホンネが立ちはだかります。「自分個人のため」なら後ろめたくても、「家族のため」なら開
きなおれます。
慈善と社会保障は、言葉とそれにまつわる情緒はちがっても、所得の再配分である点はどちらも同じで
す。アメリカでは、制度としての強制的な所得再配分は個人の自由を制約するとして、反発する人が少な
くないと聞きます。その代わり、成功者は自由意志の寄付などにより、社会還元をすべきだという通念が
ある、とか。これはなにか「慈善」を連想させないでもない、そんな気もします。とはいえ、身分の制約
がないのだから、成功を求める万人の競争が社会を活性化するという主張にも、一理あります。そしてこ
の主張では、成功者の優越感や敗者の屈辱感も競争の動機になるとして、容認されます。
アメリカでは、「公平=フェアプレーの精神」が重んじられる、機会は誰にでも均等に与えられるべき
だという意識が強い、民間からの寄付がたくさんあって、才能ある貧しい若者への奨学金制度は日本より
ずっと充実している、などと伝わってきます。才能と努力が報いられて成功したと思えば、優越感も後ろ
めたくないでしょう。フェアプレー精神の強調は、成功者が心置きなく脚光を浴びるための条件です。ア
メリカの政治経済指導者には、世界のどこに行っても自信たっぷりに振舞う人が多いという気がします。
彼らは、自分がフェアプレーで勝ち登ってきた、と思い込んでいるからではないでしょうか。(続く)