ハマナス 高度社会保障国家への道 最終回
ワッカ原生花園のハマナスです。
[高度社会保障国家への道 最終回]
納めた税や保険料は自分に還ってくると、国民が信じるようにならなければ高負担が承認されず、高度
社会保障は実現しない。政治・行政の改革が必要だ。民営化や公務員人件費の削減は、それ自体が改革な
のではない。ムダなコストを省き、必要な機能は充実させて、業務を効率化させなければならない。だ
が、何がムダで何が必要かは、あるべき社会のビジョンに照らして判断される。日本の保守政権は198
0年代以降、レーガノミックスやサッチャーイズムの影響を受け、中曽根内閣が専売公社・電電公社・国
鉄などの民営化に着手し、小泉内閣が規制緩和と郵政民営化を推進した。
北欧の高度社会保障政策は、自分の個性や価値観を実現できる能力を獲得する機会を、すべての国民に
平等に提供するという考えにもとづき、いまのところ効率のいい国民経済の実現に成功している。レーガ
ン・サッチャー流の新自由主義は、市場の機能(「神の見えざる手」)を信頼し、(企業)減税、規制緩
和、福祉予算削減、民営化などを推進する。貧困は自己責任として、個人間の競争を刺激しようとするも
のである。英米両国は現在、それなりの経済活力を実現しているが、個人の力ではどうにもならない貧困
に沈む層の拡大が、社会を不安定にしている(参照:『ハードワーク』英、ポリー・トインビー著、椋田直
子訳、東洋経済新報社刊、05年)。
新自由主義思想の持ち主はたいてい、国家武力と治安の強化に熱心である。国際的にも国内的にも、優
位な経済的地位を維持するには、経済弱者の抵抗を抑圧する必要があるから。宗教や国家主義的イデオロ
ギーを強調する指導者もいる。豊かな国に住むあなたが幸せになれないのは、まちがった神を信じる者、
不信心者、あなたの地位を奪おうとする外国人のせいだ、と説くことで、政治や社会システムに向かう反
感を逸らしたいから。いまの高度社会保障諸国は、もともと軍事的覇権を主張できる大国ではないことも
あって、経済外的権力の圧力がなければ、経済的には自分たちが優位に立てると考える。彼らの武力は、
大国の経済圏から締め出されないため、そして専制的な途上国の武力で自国民の自由が制約されないため
に行使される。日本はヨーロッパと北米のいくつかの国以外では、例外的に有力な経済大国で、国内経済
格差は拡大しつつある。新自由主義を強化しようとすれば、武力と治安とイデオロギーに力が入る立場
だ。
高度社会保障と新自由主義のどちらの路線も、企業と政・官界の、人格的親和より合理性を優先する、
いわば乾いた人間関係が前提になっている。日本では人格的序列秩序の、湿った人間関係の上に、新自由
主義が導入された。そして、どちらの路線を選択するのかを国民が決断する前に、なし崩し的に民営化=
善という雰囲気が定着してしまった。国民の間に「官」への根強い不信があったからだ。この不信の由来
は何か。ひとつは、決定のプロセスが不透明で責任の所在がはっきりしないため、政治・行政に腐敗・癒
着や身内優先が横行していると疑われているから。言い換えれば、公共性を最優先すべき民主政治の未成
熟である。もうひとつは、いたるところに湿った人間関係が残存していること。この二つは実は同じ問題
である。政治・行政・経済など、公的生活のすべての次元で、関係が乾いていくことが成熟なのだ。
乾いた関係では、上下は職務職階上のものであり、誰がどこまで決定の権限をもつのかも、決定が間違
っていたときの責任の所在も、明確に規定されている。職務を離れれば上下はなく、個人間の人格的関係
は職務上の地位とちがう次元にあることが合意されている。決定までの議論では、発言権のあるものどう
しの立場は対等で、意見が対立すればどちらがより正確に分析し、より優れた方針を提示できるかが競わ
れる。優劣が定まらないときは、多数決や権限のある者の責任で決定される。
日本ではまだまだ公共の次元に私的な感情が容易に入り込む。首相が私的な嗜好を「美しい」などとい
う主観的な言葉でくくり、それに唯々諾々と従う者が公的地位を得る国なのである。職務職階上の地位と
人格的関係の境目があいまいだ。部下に職務への誠実より自分への忠誠を期待する上司が少なくない。
「出世」を望む部下はたいてい、仕事ができるだけではダメ、有力な上司の個人的親愛を得なければ、と
考える。いわば親分子分的な、忠誠と恩恵の秩序ができやすい。欧米でも人脈は重視されるが、それは能
力を示す機会がだいじだから。能力が勝ると証明されれば、機会の提供者より上の職務に就くのも当然で
ある。日本では、忠誠を信頼されて引き上げられるのだから、目上の者の面目をつぶす反論はタブー。上
を立てる工夫をせずに自分の意見を主張すれば、回りからも信頼されない。しがらみが癒着と腐敗と無気
力を生み、誠実な職務執行を妨げ、創意と才能を抑制する。政治・行政改革の核心は、権限と責任の所在
が明確、決定までの議論のプロセスがオープン、能力のある人材が登用されて無能な者は地位を追われ
る、そういう透明で効率的なシステムの実現でなければならない。
高度社会保障は他の分野と無関係に実現できるものではない。国家安全保障、政治・行政改革、教育・
労働・経済・社会政策などでも、一貫性のあるビジョンが必要になる。
(「高度社会保障国家への道」はとりあえず終わりです。)
[高度社会保障国家への道 最終回]
納めた税や保険料は自分に還ってくると、国民が信じるようにならなければ高負担が承認されず、高度
社会保障は実現しない。政治・行政の改革が必要だ。民営化や公務員人件費の削減は、それ自体が改革な
のではない。ムダなコストを省き、必要な機能は充実させて、業務を効率化させなければならない。だ
が、何がムダで何が必要かは、あるべき社会のビジョンに照らして判断される。日本の保守政権は198
0年代以降、レーガノミックスやサッチャーイズムの影響を受け、中曽根内閣が専売公社・電電公社・国
鉄などの民営化に着手し、小泉内閣が規制緩和と郵政民営化を推進した。
北欧の高度社会保障政策は、自分の個性や価値観を実現できる能力を獲得する機会を、すべての国民に
平等に提供するという考えにもとづき、いまのところ効率のいい国民経済の実現に成功している。レーガ
ン・サッチャー流の新自由主義は、市場の機能(「神の見えざる手」)を信頼し、(企業)減税、規制緩
和、福祉予算削減、民営化などを推進する。貧困は自己責任として、個人間の競争を刺激しようとするも
のである。英米両国は現在、それなりの経済活力を実現しているが、個人の力ではどうにもならない貧困
に沈む層の拡大が、社会を不安定にしている(参照:『ハードワーク』英、ポリー・トインビー著、椋田直
子訳、東洋経済新報社刊、05年)。
新自由主義思想の持ち主はたいてい、国家武力と治安の強化に熱心である。国際的にも国内的にも、優
位な経済的地位を維持するには、経済弱者の抵抗を抑圧する必要があるから。宗教や国家主義的イデオロ
ギーを強調する指導者もいる。豊かな国に住むあなたが幸せになれないのは、まちがった神を信じる者、
不信心者、あなたの地位を奪おうとする外国人のせいだ、と説くことで、政治や社会システムに向かう反
感を逸らしたいから。いまの高度社会保障諸国は、もともと軍事的覇権を主張できる大国ではないことも
あって、経済外的権力の圧力がなければ、経済的には自分たちが優位に立てると考える。彼らの武力は、
大国の経済圏から締め出されないため、そして専制的な途上国の武力で自国民の自由が制約されないため
に行使される。日本はヨーロッパと北米のいくつかの国以外では、例外的に有力な経済大国で、国内経済
格差は拡大しつつある。新自由主義を強化しようとすれば、武力と治安とイデオロギーに力が入る立場
だ。
高度社会保障と新自由主義のどちらの路線も、企業と政・官界の、人格的親和より合理性を優先する、
いわば乾いた人間関係が前提になっている。日本では人格的序列秩序の、湿った人間関係の上に、新自由
主義が導入された。そして、どちらの路線を選択するのかを国民が決断する前に、なし崩し的に民営化=
善という雰囲気が定着してしまった。国民の間に「官」への根強い不信があったからだ。この不信の由来
は何か。ひとつは、決定のプロセスが不透明で責任の所在がはっきりしないため、政治・行政に腐敗・癒
着や身内優先が横行していると疑われているから。言い換えれば、公共性を最優先すべき民主政治の未成
熟である。もうひとつは、いたるところに湿った人間関係が残存していること。この二つは実は同じ問題
である。政治・行政・経済など、公的生活のすべての次元で、関係が乾いていくことが成熟なのだ。
乾いた関係では、上下は職務職階上のものであり、誰がどこまで決定の権限をもつのかも、決定が間違
っていたときの責任の所在も、明確に規定されている。職務を離れれば上下はなく、個人間の人格的関係
は職務上の地位とちがう次元にあることが合意されている。決定までの議論では、発言権のあるものどう
しの立場は対等で、意見が対立すればどちらがより正確に分析し、より優れた方針を提示できるかが競わ
れる。優劣が定まらないときは、多数決や権限のある者の責任で決定される。
日本ではまだまだ公共の次元に私的な感情が容易に入り込む。首相が私的な嗜好を「美しい」などとい
う主観的な言葉でくくり、それに唯々諾々と従う者が公的地位を得る国なのである。職務職階上の地位と
人格的関係の境目があいまいだ。部下に職務への誠実より自分への忠誠を期待する上司が少なくない。
「出世」を望む部下はたいてい、仕事ができるだけではダメ、有力な上司の個人的親愛を得なければ、と
考える。いわば親分子分的な、忠誠と恩恵の秩序ができやすい。欧米でも人脈は重視されるが、それは能
力を示す機会がだいじだから。能力が勝ると証明されれば、機会の提供者より上の職務に就くのも当然で
ある。日本では、忠誠を信頼されて引き上げられるのだから、目上の者の面目をつぶす反論はタブー。上
を立てる工夫をせずに自分の意見を主張すれば、回りからも信頼されない。しがらみが癒着と腐敗と無気
力を生み、誠実な職務執行を妨げ、創意と才能を抑制する。政治・行政改革の核心は、権限と責任の所在
が明確、決定までの議論のプロセスがオープン、能力のある人材が登用されて無能な者は地位を追われ
る、そういう透明で効率的なシステムの実現でなければならない。
高度社会保障は他の分野と無関係に実現できるものではない。国家安全保障、政治・行政改革、教育・
労働・経済・社会政策などでも、一貫性のあるビジョンが必要になる。
(「高度社会保障国家への道」はとりあえず終わりです。)