わたしが一人しか子どもをもてなかった理由

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 見に来てくださった方、コメントを下さった方、個別に返事は差し上げませんが、よろこんでいます。

 全国的に天気は荒れ模様のようですね。わたしも昨日今日と雪かきをしました。昨日の道路は浅い池み

たいでした。今日は少し気温が下がっていい具合ですが、風が強くて午後にはまた雪かきが必要になりそ

うです。そろそろ屋根の雪下ろしも。でも腰との相談。それにすべりそうだし。


 さて、昨日約束したお話しです。

 わたしが22歳で大学を自主退学してプレス工場の臨時工をしていたとき、まだ学生だった20歳の女

性と、友人たちだけに祝福されて結婚しました。二人で学習塾を始めて生活が安定した30歳近いころ、

妻がわたしにこう言ました。「わたしはまだ子どもを真剣にかわいがる自信がない。でも、あんたが一人

で責任をもって育てる気があるなら、子どもを産んでもいいよ。」

 わたしはようやく小さな子を見るとかわいいと感じるようになっていて、自分の子をほしいという気持

ちがありました。二人なら生活費を稼ぎながら子どもを育てることもできると思いました。しかし、「一

人で責任をもって育てる気があるなら」という言葉が刺さって、「よし、責任をもつから産め」とは言え

ませんでした。フィンランドのように、学費と子育てが公的に支援される社会だったら、わたしは思い切

って、「産め」と言ったでしょう。

 いまは、生まれてしまえば、妻はかわいがったのではないかと思います。実際それから10年ほどたっ

て、自分から望んで息子を出産したときは、ほんとに目の中に入れても痛くないような様子でした。息子

が来年は小学校というとき、妻は彼の将来を案じながらガンでこの世を去りました。仕事柄わたしたちは

地元の小中学校の実情を知っていました。こういう学校には入れたくない、それが二人の共通意見でし

た。わたしは息子と二人、妻が元気なころ見つけておいたユニークな公立学校の学区へ、家を借りて移り

住んで、信頼できる家政婦さんを頼み、塾舎に通勤しました。

 その小学校へ息子は喜んで通っていました。でも、点数評価を一切しないユニークな校風を作り上げた

町長、教育長、校長が変って、生え抜きの教員より外から来た教員が多くなりました。息子は変化を敏感

に感じたようで、6年生の夏、「もう学校には行かない」と宣言しました。そして、いくつか見に連れて

行った学校のうち、通学に片道2時間以上かかる私立中学を、「ここなら行ってもいい」と選びました。

 そのころわたしは、この人とならと思える女性と出会っていました。彼女は寡婦で、やはりこの小学校

の校風を慕って二人の子どもを連れて移って来た人でした。上の子は息子と同学年です。彼女もまた、で

きれば子どもを息子が選んだ私立に入れたいと考えていました。一方的にですが、わたしは申し込んだら

受けてもらえると感じていましたが、次のような事情から踏み切れませんでした。

 貸家の家賃と家政婦さんへの給与を支払い、息子といる時間を作るために塾の仕事を減らしていました

から、わたしの蓄えは私立への息子の入学金程度しか残らなくなっていました。プロポーズを受けてもら

えたとして、息子はともかく彼女の子どもの学費を負担する見通しはつきません。だからといって、生徒

の尻をたたいて進学実績を上げ、塾で儲けるという選択肢は、わたしには耐えられないものでした。何か

のことで子どもの中学の話になったとき、彼女は自分の子は公立でもいい、と言っていました。しかし家

族になりながら自分の子だけ特別扱いするなど、許されないことです。けっきょくプロポーズできません

でした。

 彼女は若かったので、いっしょになっていればもうひとりくらい子どもができたかもしれません。4人

の子の親になるチャンスはあったのです。フィンランドのように、義務教育では点数評価がなく、ほとん

ど公立の高校はどこでも選べて学費は無料で、シュタイナー学校のような特別な理念の学校を選んでも学

費が助成される社会だったら、わたしは再度結婚したと思います。

 フィンランドでは、高度社会保障が行き届いていますから、同棲や離婚を経て正式な結婚をするカップ

ルが多いそうです。子どもの学費や老後のために、自分の価値観を犠牲にして稼いだり、子どものために

無理して結婚したりするのではなく、自分に合うくらしかたを選択する自由があります。自分らしさを仕

事に生かすことが推奨されていますから、この国の経済競争力はいま世界一です。