物と情報、あるいはDNAと遺伝子
いままでわたしは遺伝子(a gene)を一組のDNA(コドン)と解釈していた。わたしだけではなく、専門家
もたいていはそうらしい。語感からして、遺伝子でもa geneでも物質を考えたくなる。しかし、リチャー
ト・ドーキンスの『祖先の物語』(小学館)を読みながら、ふと思った。遺伝子を、コドンという物にのっ
た一単位の情報、とみなしたほうがいいのではないか、と。
個体としてのわたし(ワタシ)の細胞のなかには、ひとつの受精卵だったとき以外、父母からもらったデ
オキシリボ核酸はない。それでもワタシは二人からもらった遺伝子をもつと言える。それなら遺伝子はDN
Aから引き離すことのできる何かということになるではないか。
もともとすべての物質(いろんなエネルギーの形であるときも含め)は、物と情報の両面がある。だが、
アデニン、チミン、グアニン、シトシンのどれかを含む一個のヌクレオチド分子それ自体の情報は、遺伝
子としての情報ではない。これら分子の一定数が一定の順序で組み合わされて、遺伝子の機能が生まれ
る。なら、組み合わせのパターンを遺伝子と呼んでもいいのではないか。慣れるまでちょっと使いにくい
気もするが。
情報は媒体となる物がなければ存在しない。だが媒体は置き換えできる。和紙に残る墨痕でもディスク
に残る磁気の跡でも同じ情報を保存できる。いまの生物はDNAという媒体(だけ?)に、遺伝子という情報を
保存して伝えている。かってはRNAが媒体だった。RNA以前の、粘土のような鉱物の時代を想定した学者も
いた。将来のヒトは、DNA以外の媒体を、自在に使うようになるのかもしれない。
ドーキンスは『祖先の物語』のなかで、情報としての遺伝子という考えを使っているようにみえる。だ
がこの考え方を徹底させたら、「個体は遺伝子の乗り物」という彼の表現が、彼の意図とちがう意味をも
ちはしないだろうか。