「七十而從心所欲、不踰矩」 はカッコつけじゃない ?

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 空の景色の続きです。昨日書いた撮影時間が1時間ちがってました。8時前じゃなく7時前です。デジ

カメの時刻記録が狂ってるみたい。

 タイトルの「」のなか、受験に漢文使った人なら読み下せるかも。岩波文庫版では、「七十にして心の

欲するところに従って、矩(のり)を踰(こ)えず」になってる。最近ときどき断片が頭に浮かぶんで、口語

訳にはちょっと違和感があるけど、『論語』を買ってみたんだ。「朋(とも)あり遠方より来(きた)

る・・・」とか、「朝(あした)に道を聞かば・・・」とかは、好きな言葉だね。二千年以上前の異国の人

と気持ちが通じたりするんだから、人の本性ってどこでもいつでもけっこう共通なんだね。

 わたしもあと3年たてば70だよ。実感的には「不踰矩」でなくて「不可踰矩」だね。若い女の子をレ

イプしたいと思った(欲するところ)とする。あらかじめバイアグラでも呑んでなきゃ不可能だよ。それ

に、蹴飛ばされでもしたら立ち上がれないよ、きっと。矩(道徳、法律)を踰(こ)えないじゃなくて、踰

(こ)えられない、だね。

 でも「不可踰矩」って書いたら、ミジメーって感じだけで、実もふたもありゃしない。「不踰矩」のほ

うが、悟りが全身に沁みわたったみたいで、断然カッコいい。孔子さんはきっと若いころから、体や情の

動きを、頭のなかに作ったワクのなかに閉じこめようと、必死で努力したんだね。70になって、「とう

とう苦労しなくてもできるようになったぜぃ」って、喜んでるんだ。でも、「どうだ、えらいだろー」み

たいな余韻を感じちゃう。俗物のひがみかもしんないけど。

 とにかく、孔子さんとはオトモダチになりたくない ! 「七十而從心所欲、不踰矩」、「そりゃーそり

ゃー、ご立派なことでごぜーますなー、あっしらにゃ真似のできねーことで、」なんて会話だと、酒の味

がだいなし。「もうできねーけどよー、やっぱやりてーよなー」、「ほんと、ほんと」のほうが、ぐんと

盛り上がるよ。そうは言っても、他人からはわたしもカッコつけに見えるんだろうな。体や情の生臭い動

きも、テレやてらいなしに自然に話し合える境地が、わたしのめざす「悟り」だね。