わたしはついさっき午前2時半に読み終わったばかりの、一冊の本の余韻を噛みしめている。著者は中
井久夫。現役時代はわが国の臨床精神科治療の第一人者であり、詩人、翻訳家、随筆家としていまもたく
さんの愛読者がいる。その人の最新作、『樹をみつめて』(みすず書房)である。触発され、考えたいと思
ったテーマは多い。戦争のこと、信仰のこと、老境のこと、数学のこと、痴呆やトラウマに向き合う姿勢
などなど。今日は、宮澤喜一が戦後史で二つの節目の一つと書いている(『宮澤喜一回顧録』岩波書店
05年)という、60年安保のことに少し触れたい。
あの年とその前年わたしは、何度か国会を取り巻いた大学生のマス(大衆)の物理力を構成する名もない
ひとつの粒だった。その後大学を捨てて何年かは、「運動」に人を巻き込もうとするようなこともした。
あのころの行動はなんだったのか、断続的に考え続けているが、いまもしっくりくる答えは見つかってい
ない。わたしたちを駆り立てた不定形な情念のなかには、何かがあったような気がする。だが、世界を俯
瞰する思想を成熟させる力量もなく、空しく時代に埋没して終わった。そんな感想のなかを行きつ戻りつ
しているから、中井さんを通じて知った宮澤さんの解釈が新鮮だった。
あの運動で、戦前回帰的な権力主義が決定的に挫折し、経済発展と福祉国家建設が重点になった、と解
釈されているという。たしか、国民年金制度が始まったのは60年代だった。いまわたしは月に5万5千
円ほどの国民年金を給付されている。息子の大学入学費用の借金返済、介護・国保料金支払い、民間入院
保険料支払いでちょうど消えて、衣食住には回らない。だがこの給付がなかったら、わたしの自立したく
らしは速やかに破綻する。この歳のくらしなど計算に入れずに生きてきた。宮澤さんの解釈が正しいとす
れば、戦後史のあの転換がなかったら、わたしはとっくに生きられなくなっていたことになる。
あのときの若者たちの無我夢中の行動が、いまのわたしのささやかなくらしの誇りに、つなるところが
あるということなのだろうか。そうだとしても、宮澤さんの言う1985年のプラザ合意を第二の節目と
する転換がある。あそこからはじまって、小泉・安倍両政権で頂点に達する潮流が、つつましい社会保障
の遺産さえ食い潰そうとしているようだ。嗚呼 ! 息子よ、孫よ。